モクジ

● 深山's 小説「柿」  ●

 バスから降りた時、町は既に夕暮れ時だった。美智子はバスから降りると十年ぶりの故郷の空気を吸った。昔は大嫌いだった町、けど今はなんだかとても落ち着く。
 都会との空気の違いを改めて実感する。けど、空気以外はあまりにも変わってしまっている。昔ながらの商店街は潰れ、大きなスーパーマーケットが何軒も出来ていた。
 変わっちゃったんだなぁ、この町も。美智子はそんな郷愁な想いが自分にあることに驚きながらそう思った。そして、自分も変わっちゃったんだなどと考えながら、実家へと歩みを進めた。
 離婚して実家に戻ってきた身としては、ただいまなんて大きな声じゃ言えなくて、美智子は静かに戸を開けた。実家の玄関は相変わらず、鍵も掛けずに開けっ放しで、ここはまだ変わってないんだと美智子は安心した。
「おや、今着いたのかい?」
 母が奥から洗濯かごを持ってやって来た。その声を聞いた途端、目から涙が溢れ出した。あぁ、やっと落ち着ける、安心できる場所へ来たのだと実感した。美智子は以前より細くなった母の腰にしがみつきながら子供のように泣いた。
「で、あの男とは上手く別れられたの?」母は私を落ち着かせ居間へ連れて行き、お茶を持ってくるとそう言った。
 美智子は小さく頷いた。「けど、あまり慰謝料取れなかった。もっと思いっきりふんだくってやれば良かった」
「本当にそうだねぇ」
 母の打つ相づちが美智子の心を落ち着かせる。都会では誰にも頼れなかったし、弱みも見せられなかった。愚痴を言う相手さえ居なかったのだ。このように愚痴を言えることが美智子は何より嬉しかった。
 それから、しばらく美智子は話し続けた。夫や仕事についての愚痴、物価高、人情の薄さ。話してみると、都会にはいいものは何一つ無かった。
「もう東京には戻らんのかい」
「分からない」本当に美智子には分からなかった。あれほどまで憧れていたあの町を簡単に捨てる気にはなれなかったのだ。
「ただいま」
 父の嗄れた野太い声が玄関に響く。その声に美智子は身体を硬くした。美智子は東京に出る時、父に反対されていた。それを押し切って東京に出て、結婚した。もちろん結婚の時も反対されたが、美智子は無視をした。結婚式にも呼ばなかった。
 父が居間に入ってきた瞬間、美智子は怒鳴られると思った。ワシの言った通りじゃろうと愚弄されるとも思った。
 しかし、父は美智子をちらりと見ると、何も見なかったように居間を出て行った。
「ちょっとお父さん、せっかく美智子が帰ってきたんだから声ぐらい掛けてあげてもいいじゃないですか」母の呼び声にも答えることなく、父は自分の部屋へ入っていった。
 母は顔をしかめながら、なんだか照れくさいみたいと言った。美智子は久しぶりに見た父の背中が少し小さくなっていることに気付いた。

 次の日、美智子が起きてくると父が縁側で干し柿を作っていた。足音に気付いたのか父は美智子をちらりと一瞥した。美智子は小さい時のことを思い出した。
 幼い頃、美智子は父の膝の上でよく干し柿を作るのを手伝った。太陽の光を浴びて、柿がぴかぴか光ってとても綺麗だった。
「美智子、なんで柿があんな色してるか知ってるか?」
 あの日、父は美智子にそう問いかけた。俯いて考えている美智子の頭を撫でながら、父は優しく言った。
「あれはなぁ、おひさんの色なんじゃ。太陽の光をいっぱい浴びて、それでどんどん美味しくなるんじゃ」
「じゃあ、あの実は凄く美味しいの?」美智子は木のてっぺんに一つだけ残った実を指差した。
「あぁ、美味しいとも」
「じゃあ、なんで食べないの」
「あれはなぁ、『木守り』といって来年もよく実りますようにとおまじないなんじゃ。それにあんなに美味しいモノ人間だけが食べちゃいかんじゃろ」
 父はそう言うとまた美智子の頭を撫でた。
 その頃と、何もかもが一緒のようで全てが違っていた。父の手が小刻みに震えていることに美智子は気づいていた。美智子は思わず父の横に座り、柿と紐に手を伸ばした。
 父はやはり何も言わない。美智子と父の関係もやはり変わってしまったのだ。美智子はそう思いながらも淡々と父の作業を手伝う。
 ふと柿の木を見ると、やはり今年も実が一つ残っていた。
「あの実、そんなに気になるか」美智子が実をしばらく眺めていると、父が急に口を開いた。
「そんなに欲しいんなら、喰ってもいいぞ」
「でもあれはおまじないで残しとくんじゃ……」
 父は照れくさいのか美智子に背を向けて言った。
「あれにはおひさんの力がたっぷり詰まっとる。今、一番おひさんの力が必要なのはお前じゃろ」
 父はそう言うと立ち上がり、納屋から梯子を持ってきた。その登っていく足取りは不安定で美智子は凄く不安だった。
「いいよ、私が取りに行く」
 美智子はそう言うと父から梯子をひったくり、軽快に登っていこうとする。
「そんなに早く登ると足を滑らすぞ」父がそう忠告した途端、美智子は足を滑らしそうになった。
 父はほら、いわんこっちゃないといった顔で苦笑いをしていた。美智子もつられて笑う。久しぶりに見た父の笑顔は昔と変わらなかった。
 美智子はさっきより少し慎重に梯子を登っていった。涼しい風が美智子の髪をなびかせていた。
 やっとの事でてっぺんに辿り着くと、美智子は町を見下ろした。町はやっぱり変わっていたけど、変わっていない部分もチラホラある。その景色が気持ち良くて、懐かしくて、しばらく美智子は町を眺めていた。
「変わっちまったじゃろ」木の下から父が話し掛ける。
「けどな、この町はいつまで経ってもお前の故郷じゃ。だから、離婚しようが、勘当されようが、いつでも戻ってきていいからな」
 父の声が美智子の心に響く。美智子の心はもうおひさんの力でいっぱいだった。
「その柿食うて、しばらく休んだらまた東京に戻れ。今度は無理せんとな」
 美智子は頷くと柿の実に手を伸ばした。それを手にとって、しばらく柿を眺めると美智子は笑い出した。
「どうした?」
「この実、もう鳥に全部喰われちゃってる」
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