深山's 小説「金木犀」

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「もう、つぼみか。」
私は足を止め、その花を見つめた。
金木犀のつぼみはまだ開いてさえいないのに、その匂いはここにまで届いている。
もうすぐ世間には秋が来る。

この病院にも季節は平等にやってくるようだ。
病院に妻が入院してからもう一年経つ。
すっかり慣れてしまったこの病院もかなり老朽化が進み、来年には改装工事をするらしい。
エレベーターに乗るとそれは悲鳴を上げながらも昇っていく。
エレベーターから降り、閑散とした廊下を歩く。

ドアの前に立ち、ノックをする。
ドアを開けると、病院独特の匂いが立ちこめていた。
私は窓を開け、この空気をこの部屋から追い出した。
入れ代わりに心地よい風と金木犀の香りが入ってくる。

それから、見舞い客用の小さい丸椅子を探し、座る。
椅子は少し鈍い音を立てたが、すぐに落ち着いた。
ふと見ると花も枯れていたので入れ替えた。

ふと、妻を試したくなる。
「今度、金木犀の花をもってきてやろうか。」

妻からは返ってきたのは相槌ではなく寝息だった。
その眠りはとても深く、もう目が覚めないことを予感させた。

これが終わったら、仕事だ。
私は溜め息を一つ吐くとコーヒーを買いに行った。
どうしてもこの息苦しさに耐えられなかった。
妻が飛び降りてからずっと仕事と看病の繰り返しだった。
妻は一命は取り留めたが意識は戻らないままだった。

私はコーヒーを買って部屋に戻った。
ドアを開けると娘が座っていた。
「来てたのか。」
娘はこちらに気がつくとすぐに話を切り出した。
「この間の話考えてくれた。」

この前の土曜日もこうして二人で見舞いにきた。
その帰り道に、妻を在宅治療に切り替えないかと言われた。
「家で介護したほうが治療費も掛からないし、ずっと一緒に居れるじゃない。私も暇があれば見に行くし。」
娘はさも素晴らしい提案というように言ってきた。
「仕事はどうするんだ。」
娘は当たり前というふうに言い放つ。
「もうすぐ定年だし、いっそのこと辞めたらいいじゃない。お金は私が援助するから。」

確かに妻にとってもそのほうがいいだろう。
しかし、私は諦めたくなかった。
今までの生きがいだった、仕事までもは。

娘は私が賛成をすると信じて止まないようだった。
「私は辞めるつもりはない。」
娘は驚いたように顔を上げた。
「何でよ。その方がお父さんだって楽じゃない。」
娘は思い通りにならなかったいらだちを私にぶつける。
娘はいつもこうだった。
性格は妻と正反対だった。

「別に今更、会社を辞めなくたっていいじゃないか。今のままで十分じゃないのか。」
娘は不満そうだった。

「お母さんはきっと家で暮らしたいと思ってるに違いないわ。お父さんはお母さんと会社とどっちが大切なの。」
「どっちも大切なんだ。」

娘は怒って出て行ってしまった。
私はもう一本コーヒーを買い、仕事に向かった。

次の日、私は休みだったので久しぶりにゆっくり寝ていた。
すると、電話がかかってきた。

「もしもし。」
「大変です。奥さんが行方不明になりました。」
「えっ。」

私は一瞬、理解できなかった。

「どういうことですか。」
「わかりません。朝、病室を見るともぬけの殻で。どこにいるかご存じありませんか。」
「わかりません。とにかくすぐにそちらに向かいます。」

どういうことだ。
妻は昨日まで全くの意識不明だったはず。
病院についても、状況は変わらなかった。
警察にも頼んだが、何せ、病人だ。
急がなければならない。
「一度、探してきます。」
私はそういって思い出の場所に探しに行った。

「久しぶりだな。」
懐かしい景色も今ではすっかり様変わりしている。
妻とはよくこの公園でデートしたものだった。
妻は噴水の前に座っていた。
「朋子。」
懐かしすぎて、どう話していいかを忘れてしまったようだ。

「あなた、覚えてる。ここで、プロポーズした日のこと。」
そうだった。

「あの日、あなたは私にこういった。おまえを一生愛し続けるって。」
「あぁ、確かにいった。」
「けどね、私分かってたの。そんなこと無理だって。だから、あなたを恨んだりなんかしない。」
「おい、どういうことだ。いきなり意識が戻ってそんなこと言われても。とにかく、病院に戻ろう。」

私は妻の手を取った。
「やめて。私、もう嫌なの。」
そういって、私の腕を払った。

「もう、うんざりなの。愛してるふりして、愛されてるふりなんかされるの。だから飛んだの。嘘の愛なんかいらない。」
「朋子、私はおまえを愛してる。今でもだから。」
「嘘つき。あなたはいつも仕事を優先させてきた。娘のことも全部私に押しつけて。」

そういうと妻は鞄からナイフを取り出した。

「私、ずっと眠ってた。けどね、時々声が聞こえた。あなたの声が。あなたはいつも溜め息ばっかり。
そして、昨日もあなたの声が聞こえてきた。なんて言ったと思う。」
私は黙っていた。
「私と仕事が同じくらい大事だって。いい加減にしなさいよ。私はあなたのためを思って、ずっと頑張ってきた。育児だって家事だって。
それなのにどうして、いつもあなたは仕事を優先するの。」

確かに、一年前まで私は仕事人間だった。
でも、今は。

「だから、死ぬの。さよなら。」

朋子はそういうと自分の腹にナイフを突き立てた。



「何とか、一命は取り留めましたが意識はまだ戻りません。しばらくは様子を見ましょう。」
医師の言葉に頷き、私は部屋を出る。

妻の病室には金木犀の香りが漂っている。
私は妻の横に座る。
「おまえには、届いてたのかな。金木犀の花を持ってきてやるって言葉。」
妻は答えない。

「知ってるか、朋子。金木犀の花言葉には真実って意味があるんだ。」


次は、渡せるだろうか。
金木犀の花を。
この真実の愛とともに。


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