深山's 小説「月」

 俺は昔から月が好きだった。あの程良く淡い光がとてつもなく好きだったからだ。だから、俺は毎晩決まって屋根に登り、空を見上げていた。
 今夜も俺は屋根から月を見上げていた。月は相変わらず、優しい光を俺に与えてくれる。真夜中の屋根の上はとても静かで、まるでこの世に誰もいないかのようだ。冷たい風が頬を撫でるように吹く。
「何をしているんだい、あんた」
 どこから現れたのか、一匹の黒猫が俺に尋ねる。その身体は闇に溶け、眼だけが爛々と光っている。
「見れば分かるだろ。月見だよ、月見」
「そうかい、月見かい」
 そう呟きながら、黒猫は俺の隣に腰を下ろした。
「月には兎がいるそうだね」
 黒猫が唐突に話し始める。
「あぁ、そういう噂だ」
「あんたはどう考えているんだい?」
 俺は一瞬考えて、月を見上げる。その陰影は確かに兎のように見えないこともない。
「いるんじゃないのか。みんなが信じているんだったら」
 黒猫は何も言葉を返さない。妙な沈黙がしばらく続き、俺は相変わらず月を見ている。
「私はね」
 黒猫がゆっくりと口を開く。
「私は兎じゃない方がいいね。兎はあまりにも安っぽいし、嘘っぽいだろ」
「嘘っぽい?」
「あぁ、嘘っぽい。嘘を吐かない奴がいるっていうのと同じくらい嘘っぽい。まだ、火星人の方がましだね」
「月には火星人はいないだろ。せめて月人だ」
 黒猫は曖昧に笑い、空を見上げる。その眼はさっきより一層輝きを増して光っている。
「たしか明日が出発の日だったね」
 黒猫の言葉に俺は小さく頷く。明日になれば全て分かる。ずっと見てるだけだった月のことが全て。
「是非、この老いぼれの分まで見てきておくれよ。月にはいったい何がいるのか」
 黒猫はの言葉に俺はもう一度、今度は大きく頷いた。

 次の日、俺は月へと飛び立った。俺の大好きな光にどんどん近づいていく。でも、近づくにつれてだんだんくすんで見えるのはどうしてなんだろうか。
 俺の期待は月に近づくにつれ、だんだんと萎んでいった。ついに降り立つとそこは綺麗な星どころか荒れ果てた不毛の地だった。遠くからではあんなに綺麗に見えていたのに、実際は兎どころか生き物の断片すらない。
 俺は小さく溜め息を吐いた。少し近づきすぎたのかもしれない。俺は小さな旗を深く深く突き立てて、それから小さな石ころも拾って、地球に帰っていった。

 帰ってきても相変わらず月は綺麗だった。俺はいつも通り屋根に登って月を眺めた。するといつの間にか黒猫が隣に座っていた。
「どうだった。月にはいったい何がいたんだい?」
 俺はポケットに入れていた小さい石ころを取りだしてそれを眺め、それから月を見上げた。石はやっぱりそこら辺に転がっているのと同じただの石で、ここから見える月は行く前とちっとも変わらず優しい光を放っていた。俺は視線を両方の間に行ったり来たりさせて、それから決心して言った。
「月には……」
 
 月の淡い光がそっと二匹を照らし続けていた。
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