深山's 小説「痣(あざ)」

 きーこ、きーこ。
 頼子が乗っているブランコが寂しそうに啼く。もう日も暮れかけていて、公園には頼子以外は誰もいない。さらにはどんよりと曇った空はもうすぐ雨が訪れることを予感させる。
 頼子は出来るなら家に帰りたくなかった。家の中の鬱屈とした空気、あちこちに転がっているビール瓶、そして何より煙草の臭いをさせて頼子に迫ってくる父親。その全てが頼子は大嫌いだった。しかし、もう帰らなくてはならない。小学生の頼子には他にどこにも行く場所なんてないから。
 ぽつぽつと顔に当たった水滴達はみるみる威力を増し、頼子に降りかかってきた。もう帰らなくてはならない。頼子は仕方なく、ブランコから飛び降り、ランドセルを背負って家に向かった。
 雫がしたたる身体で出来るだけ音を立てないようにドアをそっと開ける。それでも立て付けの悪いこのドアはきぃきぃと嫌な音で啼く。運の良いことに中からは物音はまったくしない。父親が寝ているならば好都合だ。静かに部屋の隅に座っているだけでいいのだから。でも、もし起きていたら……
「おかえり、頼子」
 濡れた素足を踏み出した途端に、父親の誠二が妙に優しい声で呼びかける。頼子は思わず鳥肌がたつ。
「さっき先生から電話があったんだ。何の電話か、頼子、分かるな」
 誠二は静かだが強い口調で言う。頼子はただただ自分の足元を見ている。濡れた身体によって黒くなった絨毯。
「娘さんの身体に痣があるようですが、あれはどうして出来たのですか、だってさ。まるで俺が悪いみたいだよなぁ」
 今日の身体検査のせいだ。頼子が必死に服を脱ぎたくないと言ったのに、担任は無理矢理服を脱がせた。そして、痣を見つけるとしつこいばかりにそのことを追求してくる。どうせ何も出来ないくせにと頼子は思った。どうせ私をここから助け出すことが出来ないならば、せめて放っておいてくれ。
 誠二は氷のように冷たく笑いながら、頼子に近づいてくる。頼子の身体はがたがたと震えだしていた。それは決して寒さのせいじゃなくて心の奥底から染み出しだしてきたものせいだった。
「どうして分かったんだろうな。この家には俺と頼子の二人しかいないのに」
 誠二と頼子は二人暮らしであった。母親はとうの昔に家から逃げ出している。
 誠二はおもむろに煙草を取り出すと、火をつけた。それから、人形のように動けずにいる頼子の頭を右手で掴むと、左手で煙草を持った。
「悪い子にはきちんとお仕置きしないとな」
 誠二は煙草を頼子の首に近づけた。頼子は抵抗するが、大人と子供だ。到底かなわない。
 首に煙草が押しつけられた瞬間、頼子は短く、鋭く叫んだ。その声を聞くと、誠二は喜び、笑った。嬉しそうに、もう一度、今度は腕に押しつけた。頼子は抵抗する術もなく、ただただ歯を食いしばり耐えていた。
 次に誠二は頼子に服を脱げと命令した。断れば、もっとひどい折檻が待っていることを知っていたので頼子は仕方なく脱いだ。
 頼子が服を脱いでいる間に、誠二はもう一本煙草を取り出し、火をつけていた。次に何をされるのか頼子には分かっていた。これが自らの日常であり、これが我が家の常識なのだから。
 誠二は無防備になった頼子の身体のあちこちに煙草で痣をつけながら、頼子を愛撫していった。頼子はその間ずっと身体を固くし続けている。ただただ時間が経つことを祈った。こうしていれば、感情を閉ざして人形になっていれば、いつか行為が終わることを頼子は知っていたから。
 
 その晩、誠二は酔いつぶれて眠り、頼子は感情のない瞳で誠二の顔を見ていた。こいつに私はどれだけ苦しめられただろう?
 いっそのこと殺してしまいたい。しかし、小学生が大人を殺すなんて出来るだろうか?包丁で刺しても、ビール瓶で殴っても非力な頼子では完全に殺しきれないかもしれない。失敗すれば、逆に殺されるだろう。
 その時ふと、煙草が目についた。
 誠二を起こさないように静かに灰皿を手に取る。それは妙に冷たくて頼子の手によく馴染んだ。その灰皿には先ほど自分に痣をつけた煙草がくすぶっている。これを酒に混ぜれば……
 頼子は呑みさしのビール瓶にまるで化学の実験をするかのように煙草の灰を流し込んでいく。淡々と、何の感情も込めずに、人形のように。頼子はそれを父親の横に置き、押入に向かった。そこが頼子の寝床だ。頼子は押入にはいるとすぐに目を閉じた。何しろいろいろと疲れていたし、早く明日が来て欲しいと思ったからだ。頼子は身体を丸めて冬眠をするかのように眠った。

 頼子は押入の隙間から溢れ出る朝日で目が覚めた。部屋は凄く静かで、鳥のさえずりが聞こえる。ゆっくりとふすまを開けるとそこには口からは泡を吹き、ぴくりとも動かない誠二の姿があった。その姿は朝日とそれを反射する埃でやけに綺麗に見えた。あれほど汚いものでも死ねば綺麗になるんだなと頼子は思う。
「でも、まだ足りないよね」
 頼子が小さく呟く。頼子は用意してあった包丁を持ち、誠二の身体に振り下ろした。何度も、何度も。赤黒い鮮血が頼子と部屋と誠二を染める。
 一通り染め上げると、頼子は肩で息を吐きながら笑う。その笑いはまるで誠二、いや誠二そのものだった。どこかから血の臭いが漏れたのだろうか。窓の外には烏(カラス)がベランダに止まっている。
 笑いながら頼子は誠二のポケットから煙草を取り出した。それに火をつけると、そのまま誠二の身体に煙草を押しつけて、痣をつける。
 朝日が頼子を明るく照らし、窓の外では烏が啼きはじめる。しかし、頼子はにやにやと煙草を押しつけ続ける。父親と同じ表情で。