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深山's 小説「運命」

 チッ、チッ、チッ。重い沈黙の中を時計の音だけが響いている。隣にいる姉さんは黙って目の前の机を一心に見つめている。
 ガチャとドアが開かれた瞬間、僕らは一斉にそちらを見た。帰ってきた父さんは元気なく首を振った。また、駄目だった。そう思うと自然に溜め息がこぼれる。
「すまんな、俺の稼ぎが少ないばかりに」父さんは自虐的にそう呟く。そして、がっくりとうなだれる。僕たちは絶望に打ちひしがれていた。
 事の発端は三ヶ月前だった。三ヶ月前、母さんは交通事故にあった。すぐに病院に運ばれたのだが、頭を強く打ったらしく意識は戻らず、植物人間となった。それでも僕たちは母さんの意識が戻るという希望を持って医療費を払い続けていた。
 しかし、つい一週間前の事だ。唐突に医療費の控除が打ち切られた。政府が増え続ける医療費に対して新たな法律を作ったのだ。そうなると、我が家にはもう母さんの医療費を払うだけのお金はなかった。
 父さんは金を貸してもらおうと必死に走り回った。しかし、結果は未だ出ていない。
 その日の晩、父さんは家族会議を開いた。もちろん議題は母さんの事だった。
「父さんは母さんの事を諦めようかと思っている」
 父さんの言葉に僕らは驚いた。なんと言ってもこれまで一番母さんを助けようと頑張ってきたのは父さんだったからだ。
「ちょっと待ってよ。母さんの事を諦めるって言うの?」
 姉さんの言葉に父さんは小さく頷く。「仕方ないんだ。これからずっと母さんの治療費を払っていけるだけのお金は家にはない。となると、諦めるしかないじゃないか」
 父さんの言葉に僕たちは黙り込む。けれど、少しの沈黙の後、唐突に姉さんが口を開いた。
「私、働く。働いて、母さんの治療費を稼ぐ」
「お前、高校はどうするんだ?」父さんが慌てたように言う。
「もちろん辞める。高校なんて行ってもどうせやりたい事なんてないしね」
 嘘だ。姉さんには看護の仕事をするという夢があったはずだ。なのに……
「僕も働く」僕もいつの間にか叫んでいた。僕だけ何も努力しないなんてなんだか仲間はずれみたいだから。
「お前は無理だ。まだ中学生だろう」
「そうそう、お金の事は私が何とかするから」
 二人はそう言うと僕を部屋から追い出した。二人で大人の話をするらしい。僕はそれでも企んでいた。母さんの治療費を稼ぐ方法を。
「と言う訳なんだ」僕は目の前の親友の手を強く握った。「力を貸してくれないか?」
 祐馬は手を振り払いながらなんで俺なんだよと呟く。
「だって、あちこちで隠れてバイトしてるらしいじゃん。僕にも紹介してくれないかなと思って」
「無理だ」祐馬は厳しい表情で答える。「お前は背も低いし、見た目も子供っぽい。一発で中学生ってばれちまうよ」
「頼むよ。このままじゃ、母さんが死んでしまうんだ」
 祐馬はしばらく考えると、思いついたようにメモに何か書き始めた。
「ここに行ってみろ。ここなら雇ってくれると思うぜ」そう言いながら祐馬は僕にメモを渡した。
 放課後、僕は祐馬のメモに書いてあった所を訪れた。そこは少しレトロな喫茶店で、ドアを開けるとコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「いらっしゃいませ」張りのある声で少し小太りのおばさんが迎えてくれる。
「あのすいません、祐馬に紹介されてきたんですけど」
「はいはい、話は聞いてるわ。私は大原加奈子と言います。よろしく」
「僕は大杉蓮と言います。それで、僕、まだ中学生ですけど雇ってくれるんですか?」
 大原さんは少し頬笑む。「もちろんよ。母親のために頑張るなんて感動的だもの。それに……」
「それに?」
「いや、何でもないの。それより仕事、仕事。きちんと給料分は働いてもらうわよ」
 それから仕事に取りかかったが、その内容はとても楽なものだった。来るのは常連客ばっかりで可愛がってもらえたし、大原さんも優しい仕事しか回さなかったからだ。
 仕事が終わると、大原さんは僕に封筒を渡した。
「はい、今日の給料分」中身を見るとそこには三万円が入っていた。
「こんなにも貰えませんよ」僕が返そうと突き出した封筒を大原さんは「いいから」と言いながら僕のポケットにねじ込んだ。
「これで人の命が助かるなら安いものよ」僕は頭を深く下げ、店を後にした。
「そうか、あの人三万円もくれたか。予想以上だな」次の日、祐馬に報告すると祐馬は楽しそうに言った。
「でも、なんであんなにもくれたんだろう?」祐馬はニヤニヤしながら答える。
「実はさ、あの人旦那さんを交通事故で亡くしてるんだ。それもお前の母親と同じ症状。金がなくて渋々諦めたらしいから、お前の母親には助かって欲しいんだろうな」
「ちょっと待って。もしかして祐馬はその事が分かっていて、あそこをバイト先に選んだの?」
 祐馬は当然といった顔で言う。「当たり前だろ。わざわざ中学生を雇ってくれる所なんて滅多にないし、あそこならバイト代も弾む。まさかこんなにもくれるとは思わなかったけどな」
「それって卑怯じゃない?」
「金を稼ごうと思ったら、少しは頭を使えよ。この世はな、結局金がものを言うんだ。命だって金がなけりゃ、助からない。母親を助けるためだったら仕方がないだろう」そう言うと祐馬は少しだけ悲しそうな目をした。
 その日も大原さんは僕に三万円を渡してくれた。僕は我慢しきれなくなって尋ねた。
「大原さんの旦那さんも母さんと同じ症状だったって本当ですか?」
 大原さんは少し困った顔をすると、ゆっくりと話し始めた。
「本当よ。三年前の事だったわ。私の夫は交通事故にあった。意識は戻らずに植物人間になったの」
 そう言うと、大原さんは後ろの写真を振り返る。そこには今より少し若い大原さんと優しそうな男性が写っていた。
「でもね、医療費が払えなくてね。泣く泣く諦めたの。あのときは辛かったわ。私が彼を殺したんじゃないかって、私にもっとお金があったら彼は助かったんじゃないかって」
 大原さんは少し涙ぐむ。「結局ね、現実的な話、命ってお金で買えるの。あなたの母親だってお金があれば助かるかもしれないの。だから、後悔しないように使って」
 いつの間にか、僕も涙ぐんでた。大原さんは先に泣きやんで、僕にココアを入れてくれた。
 それから一週間後、容態が急変し母は死んだ。
 葬式には大原さんも来ていた。僕はもう父さんにバイトの事も大原さんの事も話していたので、父さんと僕は一緒に挨拶をした。
「これ、息子がもらった分です」そう言うと父さんは封筒を大原さんの手に握らせた。
「実はあなたに言いたい事があるんです」父さんは少し涙ぐみながら言う。
「あなたはお金がなかったせいで旦那さんが死んだと思ってるそうですが、それは違うと思うんです。命ってのはやっぱりお金じゃ買えないものだから、全ては運命だったんじゃないかなって。あなたの旦那さんが死んだのも、家の家内が死んだのも」
 大原さんはその言葉を聞くと、また涙ぐむ。大原さんは結構泣き虫だ。その大原さんを父さんは慰めている。
「ねぇねぇ、あの二人付き合っちゃうんじゃないの」既に涙も出尽くした姉さんが隣で呟く。そうかもしれない。けど、それも運命なら仕方がない。いつ何が起こるかなんて僕らには分からないのだから。
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