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土井のエッセイ 略して
『どッセイ』


お題

アイデンティティは何処


・・・まぁ、自分でやっておいてなんですが、出オチ感は否めない
第一回目ですし、ここが出来たあらましなどまず語りましょうか。

夏の湿暖も程々に和らぎつつある秋の夜。
齢18を間近に控え、進学か就職という人の節目を迎えつつある男。
彼はそんな夜に鈴虫の奏でるシンフォニーを聞いて心を癒しつつ、世界の史実の関連性について反芻していた。
また勉学の合間に彼は一人、ふと思索に耽ることがある。
たよたう脳髄、ゆらゆらと。
浮かぶはエロと女人の裸体と此処でもよっぽど語れぬ桃色妄想・・・と幾許かサイトの行く末とかも少し、もやもやと。


以下、土井の中の人が織り成すノンドラマティックノンフィクションドラマ。
人間って所詮こんなもんです。

「あーなんか過疎気味だし、設立促したメンバーさえやる気見えねぇし、お客さんもまぁ増えねぇし、世界史難しいし
更新できるコンテンツもろくすっぽないわで、どうしてこんなサイト続けてるのかと思いたくなるわで、世界史めんどいわで
俺面白いヨー私はここにいるのヨーって感じに無駄に自我だけ強くした学生がオチもからっきしの身内話題で盛り上がるだけのウ○コ垂流しサイトじゃあるまいし、西洋史はいいにしてもつまらんアジア史なんて覚えにゃならんのにも納得できないし
せめて何か俺の鬱積を晴らす場にでもなれば、まだ惰性だけでサイトやるよりよっぽど意欲湧くって話・・・・・・・うん、とりあえずエッセイでも書くか・・・・・・世界史は・・・後回しにしてっと・・・・・・
・・・・・・・うーん、エッセイ書くにしても内容はともかくタイトルなんてしようか
ここに来て敢えて女の子受けとか狙ってみたりしてね、いやホント今更だけどな
あ〜〜
・・・・・・土井とエッセイどいとエッセイ・・・・・どっせい・・・・・・」

とまぁそんな感じに、私の口端が団鬼六先生ヨロシクとばかりにいやらしく吊りあげたりした経緯の元、この空間は出来ました。
あともう一つの理由もあるんだけど・・・・・・アタシそんな事口が裂けても言えないわ。
もう既に言葉の端々に垣間見えた気もするけどな。
というか素の私は痛々しいと言うか微笑ましいと言うか、なんかごめん。

はてさて私の本性などさて置いて、思い立ったら吉日で、悪魔が来たりてヘヴィメタるで、さぁ、できちゃった、何書くか、もういいか。


他人を鑑み、自分が見えず


最近街中でよく見ますね、Ipodを始めとした音楽プレーヤーを聴く人々を。
音楽ってステキですよね。
人の心が沈んでいる時も励ましてくれたり、叱咤してくれたり、発狂させてくれたり
そして他人がどんなの聴いてんだろうかはこちらが知る由もない・・・でもちょっと気になっちゃって、どんな曲を入れているのかを尋ねてみちゃうのも人の性。
そんな音楽に触れる機会が増えた昨今、幾つか私的に思うところもあったり。
自分のこだわりを持って音楽を聴くことができる、そんな人は今どれくらいいるんだろうか。

どうも人は聴取率然り、視聴率然り、処女・童貞喪失率(この類のアンケートを実際に受けた人のお話を一度聞いてみたいもので)然り、数字を気にしてしまう部分があります。
配信数や売り上げランキングって確かに参考になります。
けど、それで己の聴く聴かないを判別したりするのはかなり問題じゃないのかなぁ、と。
必ずしも自らの嗜好性がマジョリティに属するとは限らないでしょう。
大衆マスメディアの刷り込みの結果、自分という存在すら見失いつつある人も生まれてきているのではないだろうか。
アンダーグラウンドな世界でしか生きられない、正常とは相容れない、でも一般的な暮しは手放せない。
"異常"な性質を受け入れつつも、在り続ける一般社会では"普通"を演じ続けなければならない。
でもそんな潜在的に狂人体質である方は、マイノリティと言えるほど少なく無い筈なんですよ。


自分の居場所が自分のすぐ近くにあるとは限らない。
きっとそんなもの、苦悩と葛藤の果てにしか見出せない。
音楽を通して自らに近しい存在を知ることもあると思う。

いや、音楽に限らない。
手放しで褒め称えるだけの他人の評価なんて、一々真に受けていても埒が明かない。
ただもっと自分を持って生きて欲しい、例えどんなにくすんだ自分でも受け入れて生きて欲しい。
他人がどうであろうと関係ない。
でも決して気高くはない。
そんなアンダーグラウンドのプライドを持って・・・・・・といったコンセプトの曲が出ます

POAROニューテーマソング「プライドオブアンダーグランド」、絶対良い曲になるので皆さん聴いてみよう。
とまぁ今回は、前振りがしっかりしている、と言うお話(森本レオの声で


適当な文章→オーケンを語る→スマガを語る→


適当にモノを考える。

皆さんはこの文章を見て、どのような印象を受けるでしょうか。
多分応え方は二つに分かれるでしょう。
『適当』という単語をどう受け取るかによって二通りの解釈があるからです。
辞書に記された定義の上では、適当とは
「ある状態、物事、要求、その物事にふさわしいこと。」
「その場をなんとかつくろう程度で、その物事にいい加減なこと。」
とあります。

では、それを加味した上で何を述べようというのか。
なんか面白いよね〜って
物事は肩肘張らずいい加減にいなす程度にする方が、疲れなくていいものです。
人間難しいことばかり考えてると早死にするらしいし。
いや聞いたことないけど、そんなの。


、そんなことはともかく、私的に大注目のPOARO「プライドオブアンダーグラウンド」
、作詞/作曲を手掛けた大槻ケンヂ氏の近年の活動の手広さですね。
、あの超人気ブランドニトロプラスが新気鋭のコンセプトで送り出す新作、「スマガ」に挿入歌を提供ですよ。
、その名も「あくびの戦士がふぁー」
、かっこいーーくはないですね。
あと縦読みしても特に文章にはなりません。
しかし聴いてみると、流石。
オーケンを知る人ならば、きっとその一言に尽きるでしょう。
すごくいい曲、すごくカッコいい、すごくオーケン、つまりアバンギャルド

ここで、こんな疑問を抱く人がいるのではないでしょうか。
「大槻ケンヂ、ファンからオーケンと称されてぃよーる彼奴は一体何者なんじゃろうけ」
おそらくこのエッセイを見る方は学生に近しい年齢が大半だと思います、ただどこ出身か聞くのは口を憚られますね。
だから大槻ケンヂという存在を知る人の方が、きっと比率的には少ない。
故の補足説明、別名「好きなモノ語り」などをここで少し。

大槻ケンヂさんはロックバンド"筋肉少女帯"のボーカル兼作詞家兼作曲家兼著作家兼小説家兼随筆家兼評論家でって読み辛ぇ。
オーケンの歌声は決してウマいともヘタとも言い表せる類のモノではありません。
と言うか彼は歌に関しては大概にしてウマくないです、音程的な意味で。
ただ、一度彼の曲を聴くと、CDTVに出るような歌手とは根本的に世界を違えた存在である事はきっとすぐわかるでしょう。
"本当の意味でのアーチスト"の側面が強い歌い手、それが大槻ケンヂその人なのです。
狂人を自負する彼が声高らかに叫ぶ狂気が、曲自体に他の人では生み出せない様な凄味を持たせるのでしょう。
今までオーケンサウンドを聴いた事が無い人もベストアルバム『大公式』を求めて、お近くのTSUTAYAへGOです。
あと、生粋のオーケンフリークでもっと狂気を体感したい方。
『筋肉少女帯(or空手バカボン)ナゴムコレクション』を是非聴きましょう、ナゴム時代はもう普通の変態さんすら許容できないほどに狂ってます、突き抜けて最早ギャグです。
あーうん、あまりに書けることが多すぎるので、暇な時にコラムにオーケン関連は卸そうかと思います。


話題を遡って、オーケンが挿入歌を務めるゲームのお話。
最近よく「今後は色んな世界とリンクしていきたい」とオーケン自身口にしていたとは言え、エロゲーにまで手を伸ばしていたとは予想だにせず。
人間椅子が鬼作(elf)に楽曲提供していたのもあとから知りましたが、案外ロックとも関連性のある世界なのかもしれないですね、エロゲーって。
いやいやいや、いくらプロモーション至上主義の最近の業界のスタンスが嫌いでも、こういう類のタイアップは応援しますって。
仕事選べよオーケンなーんて、一粒も思いません、よ?

スマガ公式サイトを見てみると、驚愕。
ニトロ+を知る人ならば、きっとその一言に尽きるでしょう。
すごくギャルゲー、すごく萌え路線、すごくオーケン(公式のBGMが)、つまりアバンギャルド
ニトロプラスといえばカッコいい銃やらロボやら漢臭いものが得意分野でしたから、魔女っ娘やら幼児やら犬やら可愛い系で売り出す今作の狙いが掴めないのです。
本来的にエロゲーを買い求めるユーザー需要を考慮すると間違った選択でないはずのに、何か釈然としない・・・・ヒロインの設定からして何か羊の皮を被ったゴジラを見ているかのような気分です。
公式サイトの構成も凄くポップでキャッチーな感じで、それ故に製作陣の悪意の様な何かを感じずにいられない私の性根がひねくれているのでしょうか。
いや、単なる個人的な予測なんですよ、でもさ、公式の用語説明とかの時点で何かプンプンと薫ってますよね。
コイツは嘘をついている味だぜ、とブチャラティだって思うはずさ。
しかし、これぞニトロの収束論(?)


一応このエッセイの趣としては極力この手の話は組み込みたくはなかったのですが・・・・・・まぁ、畜生のオタクな人が書く文章など所詮この程度。
大塚英志先生ヨロシクとばかりに、需要は度外視でサブカル関連も含めて手広く話題は扱っていこうかと思います。
話が三転も四転もするので読み手側は困惑することになるのでしょうが、"適当さ"をウリにどッセイは私が飽きるまで続けようと思います。
はい、これ次回への伏線です。


社会をキル


結構細かい所までレイアウトを変更してみました。
アングラでシックなペットショップのイメージでまとめてみましたよタエコさん。
でもこの"アングラ"と言う言葉も最近耳にする機会は少なく、最早失われつつある死語(世界観)である気もしてきます。
情報消費社会は需要が稀少である前衛的文化を時代遅れと罵倒し、暗部は暗部としての世間との切り離しに掛かります。
社会の闇はもう、我々に関与してくることはありえないのでしょうか?
そんなアンダーグラウンドを考える今夜の世界不思議発見、司会は吉田拓郎でお送りします。


メインカルチャー(伝統的体制・大衆文化)が謳歌される世の風潮を迎合出来ない者は、個性を重視するカウンターカルチャー(反体制・対抗文化)に魅了されました。
それが絵画界ではピカソであり、音楽界ではロックであり、漫画界ではおそらくガロです。
規制の価値観に縛られない生き方は1960・70年代にムーブメントを引き起こし、日本でも多くヒッピーと称され持てはやされました。
そうしたカウンターカルチャーの一派でもあったアンダーグラウンドも同様にして、様々な世界で前衛的な文化を構築していきました。
さて、ここまでは文化面でのアングラの意味です。
概ねメインカルチャーに対抗して生まれた成立背景はサブカルチャーへと通ずるものがあるので、アングラはより世間への干渉能力の高いサブカルに昇華(包括)されたとも言えるかもしれません。
ただ、批判精神が強い文化=アンダーグラウンドと扱われるべきとは思いますが。

続いて以下に記載することは、ネット社会においてのアングラです。
アングラ(UG)はネット用語としては、しばしば犯罪的な意味合いを強調されて用いられることが多いです。
インターネットの黎明期においては、法的権力が介入し得ない多くのUG系サイト―――インターネット上では表には出せないような裏(違法・非合法行為)の世界、及びそれを扱ったサイトの俗称―――が数多く跋扈しておりました。
当時のネット社会とは専門的知識が無くとも触れられる現在とは性質を大きく別にします。
表現の自由を謳って違法性の高い情報すら扱い、他の干渉を許さない独特の閉鎖的なコミュニティが形成されていた時代です。
技術力の高いユーザーの情報交換の場となり、一般的なライトユーザーは介在できない高度な空間、それがUG系サイト。
そんなサイトも今や急激なネットの一般化に随伴しての法規制の強化の波に煽られ、表面上はなりは潜めました。
ただ、表社会ある所に裏社会あり。
コインの裏表の関係性の様にその手合いが消え去ることは勿論ないわけで、アングラの世界は根強くネット社会の中にも残っています。
またネットの一般化とは、個人の間でのやり取りでしかなかった非合法な技術や情報が、より直接的・暴力的に我々へ干渉し得るようになった事実も意味します。
お手軽且つ安全であると、善良な市民が幻視させられつつある現状のネット社会。
インターネットとは大きな情報の波であり、そこには身を滅ぼす大きな危険も孕まれている意識が今後の超高度情報消費・共有社会には必要となるでしょう。
アングラの2つの意味を比較してみると、同じ言葉でも大きく異なった様相を示していることがわかります。
ただ単にその成り立ちもその盛衰の過程が違うこと以上に、大きな共通点も見えてきます。
つまり時代の本流が生み出すのもまた、本流であるということ。
主産物には価値があり、副産物にも価値があるということ。
だから価値を顧みずに利益のみで区別化を図る今の経済主義社会の在り方は、いずれ大きな過ちを犯すことになる。
そして同時に人類の発展史は既に絶望的な段階へ足を踏み入れつつある、そう私には思えてなりません。


まさかまさかのがっぷり四つ
えぇ、基本的にふざけとマジメの区別がつかない人種に属するので、こういうのもかまします。
あとアングラアングラ言うとりますが、今回は別段POARO「プライドオブアンダーグラウンド」を意識して文章を起こしたわけではありません、あしからず。


ノンフィクションな死に方


いやー、POARO「プライドオブアンダーグラウンド」も明日(10/06)には遂にお披露目(予定)、楽しみでなりませんなぁ。
で、丁度いいので今回は少しヤクザな話でもしようかと。
ヤクザ映画を観ると、任侠道とは実際に現実世界で通用するのかと疑問を呈したくなります。
公的機関の関係者がヤクザとの関係を持つ事実をニュースで知ると、ヤクザを取り締まるべき側が既にヤクザを許容しているかの様に思われます。
ブラックラグーンを読むと、レヴィよりむしろダッチの方が可愛く見えてきます。
そんな闇社会への興味から、宮崎学氏の『ヤクザと日本』を読んでいます。
決してケンカ自体が好きではないのですが、男の性で暴力が全ての世界には惹かれるもの(ピカレスクロマン)があるのですね。

宮崎学氏と言えばグリコ・森永事件の犯人とメディア各所でも疑われていた人物。
そして、それを逆手にとって名を上手く売り込んだと言う大物。
付加すると父親がヤクザの組長、母親が博徒の娘、学生運動時代はゲバ隊長として全共闘と血みどろに戦り合ったという中々にアウトローな経歴の持ち主であります。
そんな著者がヤクザの発展史から日本の経済成長を考察するというのが『ヤクザと日本』の大まかな内容です。
ちなみに長きに渡り「ヤクザは必要悪なのか、否か」と言った旨の議論が繰り広げられています。
この手の本を度々講読している以上察しがつきますが、私は前者の考えです。
国家が一般層―――規定された税を支払い、法の庇護の下で生きる保障を与えられたとされる人民―――に対してすら必要最低限の救済の意志(誠意)も示せない以上、社会の最低下層―――税を払えず、治外の領域での生活を余儀なくされた人民―――の唯一の依り処である非合法な力も許容せざる負えない。
公的権力(警察)が介入できそうにない問題が引き起こされた場合においても、違法な暴力に対しては暴力への委託が一番手っ取り早いのも道理。
毒を以て毒を制すと表現するのもなんですが、ヤクザは肯定はしないが頭ごなしに否定出来るものでもない存在だと思います。

うむ、とりあえずこの手の新書はバカでもインテリな気分に浸れるので重宝するのです。
が、経済学に限らず評論文は共感すれば本当に飽きずに読めるけれど、コレに関してはなまじ平易な文章ではないので覚悟して読まなくては挫折しそうになるZET。
最後にプライベートな話で申し訳ないのですが、勉強の所為で録画した安楽椅子探偵を見る暇がないのがホント辛い。
なのに徒然とエッセイは書き起こされるなんてとんだ因果律の逆転なのか、そしてそれがどッセイなのだ。


注:ツンデレとはこういうの、ではありません   09/03/01 up


あー、自分は基本的に作品批判に関しては私情しか挟まないので見苦しい代物になりますが、ここでは敢えてします。
「とらドラ!」(アニメ)を何話か受験勉強の合間を縫ってチラリと見たことがあるのですが、原作はともかくこのアニメ自体の需要は大きいのでしょうか?
そもそものコンセプトが「少女漫画誌のラブコメを男性(ヲタ)向けのキャラに置き換える」ってところなんでしょうけど、、、
それがものすごい不協和音な感じです。

まず一点、言ってることの幼稚さに拍車をかけて交わされる話し言葉がとても汚い(特に女キャラ)。
こう感じる自分はマイノリティーに属するのかもしれませんが、会話主体のライトノベルとしてこの文章がずっと続くとなると、読者の日頃の読み物の趣味によっては拒絶反応すら起こされるのではあるまいか。
これもコンセプトの一つである「イマドキ」の高校生を強調する為なのでしょうけど、
確かにヲタクたちに完全な虚構の存在よりは少しぐらいリアリティの感じる女性像を提供したのはまぁ評価しましょう。
でもね、それなら何故「今更」なかわいー絵の枠組に入れてしまうのでしょうか?
その画が登場人物達の心理的葛藤(言うまでもなくそれ自体は高校生内の小さな問題であるので、リアリティはあるが物語性は乏しい)と噛み合わなくて、せっかく獲得し得たはずのヲタ以外(作品世界を贔屓目なく視る事の出来る視点)の視聴者は物語に入りづらくならないですか?
ただ、話し言葉と画のギャップに関しては本当に私見極まりなしであるので追求はしません。
つかね、うん、素人とはいえ創作人を語る手前、これ以上は自分の首を絞めかねない(笑

もう一点、そしてこれがとらドラの一番の問題点。
キャラ設定上は現実味ある(が面白味はない)葛藤を抱えているキャラクター全て、「非」現実的行動を取り続けているところ。
そのキャラの人間性と断ずるけれど、現実と仮定された人間に合理性がないってのはどう説明するのよ?
「いやいや、人間、特にまだ大人にもなりきれない高校生ってのはね、冷静に見ると誰からも不可解な行動をとってしまうものなのだよ」
そんな反論があるかもしれませんが、なるほどそれは道理でしょう。
しかしそんな事は全ての物語に言えることである以上は言い訳にすらなりませんし、それ自体が既に私の言いたい意図とは懸け離れています。
この物語論を掘り下げるなら、虚構(作品世界)の中の偶像(キャラ)は一定の基準、
つまり「人」がプロット(設計図)という「運命」に従うことになります。
物語を大木に例えれば木の葉一枚一枚にあたるキャラクターたちは、平時は予想外の突飛な行動は出来やしません。
ただ行動への理由付けなどは後付けで充分ですし、無論そこに時に不自然さが生まれることもありましょう。
デタラメな行動があとになって実は・・・という展開は物語としては不可欠ですしね。
また反論の言葉面どおり、人間とは定められた運命に従いたがらないという、難儀且つ非常に面白い反応をしちゃう生き物でもあるのですなー。

果てさて性質が悪い不条理さってのはあるもので、ヘタに人気作と評価が先行してしまったとらドラが自分的に問題視したのはモチロンその性悪さです。
またまた物語論ですが、紛うことなく理由のない不自然極まりない人間の行動を「狂気」と称すのならば、物書きの中でコレに特化している人がいます。
夢野久作作品すら聞き及ぶだけで読んだ数では圧倒的に一般的な読書好きと比べると少ない自分ですが、菊池秀行、曳いては奈須きのこ作品は好んで読みます。
そもそもこの人たちの世界観はそれ自体が既にぶっ飛んでるのですが、登場人物も無意味にハチャメチャなやんちゃ坊主ばかりです。
しかし、現実感が皆無の描写すら流暢に(あるいは暴力的に)書き溜めると、狂気は読者に物語を追わせるに足る重要な要素と化します(特にこの二人のはフィーリングが合えば、ですが)。
しかも狂気を描くのが上手い人ってのは、得てしてピカソのように人間を描くことが出来る技能をもって成せるのですね。
あの人らにかかると尋常ならざる存在ですら人間味を帯びてしまうのだから、不思議なものです。
ただもうね、この時点で脱線しすぎな気もするし、また別の機会でこういう系の話は纏めて吐き出してしまおうと画策。

話を戻します。 不自然極まりない行動に合理性と読者の納得を実現するのが一般的な創作者の腕の見せ所でもありますし、
理由なんてないのさと開き直るも人間の本質を描いたと表すなら言い返せない、いやはやこれも前述したように魅せ方によっては妙技となります。
じゃあこれに難癖つけるなや、と言いたい人、要は私が言いたい問題はその根幹を成すプロット、作品中の人々に与えられた「使命」の価値です。
世界観が平凡なら、人間自身が大変面白く興味をそそるものでない限り、購読しようなどとは思いません。当然のことです。
先延ばしに過ぎましたが、「物語がどこまでも薄っぺらく、萌え系作品を好むユーザーを意識しただけ」
そんなつくりがミエミエなのに、なまじ人気作品と称される今の社会の劣悪さが最大にして最悪の問題かもしれません。
メタ構造による製作者の意図がどうとか、死のリアリズムがどうとか問われる以前の問題、「創作の意義」です。
「創作」とは一人の人間が生死を賭して自己表現を行える場であり、作品に商業的価値しか見出せないのは(詳しくは長くなりそうなので、また後日論じます) 一定のパターンに基づく売れそうなキャラで、また気色の異なるパターンを活かして売れそうなドラマを演じる。それだけの空虚な物語に感じてしまうから。
萌え的要素を商用的要素と単純変換してしまった創作物が受け入れられてしまう世の中。
哀しき萌え消費社会の現実よな、と成人にも至らぬ男児が戯言ってみる。
とらドラは萌えという売れる下地で固められた虚構の中で「現実味(リアリティ)」を描こうとして、虚構は虚構でしかないと言う「現実(リアル)」を顕す権化となってしまったのだから、それはとんでもなく皮肉なことです。

絶対手に入らない架空の楽しい高校生活(ちょっと現実っぽい)を擬似的にでも体験していただこう、お金払ってキャラものとした作品全体に占める空気感。
萌えという萌えを一通りある程度は萌えられたけれど、同時に人の記号化の意識という絶望もしてしまった先生は、今ラノベ運営のいやらしさをありありと感じてしまうのです。
なによりね、こういう「学園」を主体にすると、誰もが経験したものである世界観だから共感はされやすいけれど、ストーリーが我々現実に生きる人の心を揺さ振るほどでないといけない。
非現実の中で学生や恋愛の孕む哀しみの存在を再認識、では精神的に未成熟若い人は得心言っても、ある程度年を重ねて経験を積んだ人にとっては当たり前でしかなくツマラナイと感じられてしまう。
だから、学園モノはあらゆる面で使い古しと罵られる危険性を持った諸刃の剣。

然りて諸刃の剣でも一度一財を築けば儲けもの。
男の「可愛い子になら翻弄されてもいい欲望」と「ホントの女の子のキモチを知りたい欲望」を補完する、そんな商用作品。
悲恋を騙って萌えを象った極悪商品。
いや、と言うかね全てが「古い」のですよ。
マネるならもっと上手くやりゃいいのに、イベントの突発的偶然性をストーリーという必然性へと即時観る側に脳内変換させる造りの甘さは如何様か。
偶然にもイマドキならありえない修学旅行先である雪山へ行くことになる。
偶然にも雪山で遭難する幸薄女を、偶然にも一人発見した鈍感男。
衰弱しきった女を背負い、偶然にもその女の寝言で彼女の本心を知る男。
あー哀れ、楽しき高校生活は崩れ去ってゆき、彼らの今後の恋模様の行き先やいかに〜。
しかもこれをアニメ1話に詰め込む気概、製作側はもしかして確信犯ですか。

ただね、悪しくもどんな創作物も商用的に活用されてしまうアニメのとらドラを見た感想であって、小説単体で見るとまた趣は違うのでしょう、うん、いや褒めるわけじゃないですよ。
ただ、古典的ラブコメってのはおじさん(10代)もそりゃ心ときめかせてきた訳で、ちょっとぐらい度が過ぎるのもまた一興と感じるだけの遊び心も心得ているつもり、うん。
でもね、メインヒロインの大河、うん、彼女がまぁー可愛くない・・・とは言わない、いやむしろツンデレの典型をうまーく外して空回りさせて、今までにない可愛さを持ったキャラクターじゃないか。
他のヒロインも、サブイベントでの不自然さはともかく、本筋の中ではリアルな女の子をしているし、動かし方や心の揺れ動きなど、極めて女性らしさが感じられて新鮮に感じます、男にはない敏感な感性を持ってるんだろうナァ・・・・・あ、いや、志向する商品性は確かに嫌いなのです、うん。
しっかし、原作者(女性)はこれで金もらえるなら楽な商売だよ、ホント。
女性的考えを男中心目線の萌えライトノベルの土台に据え置くなんて、そうできることじゃない、けしからん、いやありがたい。あれ?
・・・・いや、私は認めん、認めんぞ、こんな、こんな売れるライトノベルが気になるなんて・・・。
そう、たとえ現実とは思い通りにならないことをこの作品を通して知ったと言う人がいるとしても、きっとその人はマトモに社会に出たことないのでしょう。
社会に出たらね、そんなこといやと言うほどね、直面する問題ですよ。
そんな、そんな哀しい現実なんて、後になって痛いほど直面するんだからねっ!
現実を見失ったアンタなんて、濫然とした社会の中孤独を感じて地獄に落ちちゃえばいいのよっ!!
でもできるなら死なないで、必死に生きてくれたら嬉しいかな・・・。
でもね、そういう普段忘れかけていたものを再認識する、そういう現実と空想を行ったり来たりするぐらいの危ういモチベーションじゃないと、社会と言う広大な荒波を明るく人は渡り行けない、うん、そういう心根を持った人なら嫌いじゃないですよ。
よし、きっと本当の現実も忘れない、そんないい大人になるようにな、おじさんとキミとの約束だ。
で、でも、「とらドラ!」、アンタのこと自体をおじさんは認めたわけじゃないんだからっっ!!!
反面教師として見るに堪えなくて、くっだらないだろうけど文庫本はちょっと買うつもり・・・・あ、うん、アンタのこと好きってわけじゃないんだから、そこんとこ勘違いしないで、よね・・・。


・・・・なんだ、これ?

特に最後の気持ち悪さったら・・・いやまぁ、普段書かないような文体で多少楽しかったのは事実だけど。
実は今回、ツン:おじさん:デレ=7:2:1の黄金比で組み上げられたという、過去にない分量とくだらなさ全開の文章なのでした。
個人的な解釈としてツンデレは「日頃から常に外内関係なく辛く当たり、好きな人の優しさに急に触れるとうっかり本心を覗かしてしまう」程度がベスト。
あとメディアで言うような「最初ツンツン→付き合ってデレデレ」という単純なプロセスは「ツンデレ」と呼びません、それはただの「恋の魔法」です。
だからツンデレを始め、○○キャラといって作品の全てを知らずにファンの人まで卑下するのはやめましょう。
ツンデレとは人それぞれに形があり、霞を編むかのような深遠にして険しき求道の道です。
生半可な心で足を踏み入れては大怪我しますぜ。


とまぁうん、いつもながら思いますが、一つのどうでもいい様なネタに5時間かけられる自らの熱中具合に脱帽です。
とは言え最初のは素人なりに考える創作論の見地から中々に真剣に書いてみました(だから特に前振りもせず書き出してみました)。
けれど、やっぱりアニメ見ただけで作品性全ては判断しちゃダメ、一番愚かしいことです。
こういうね、なんでもかんでも否定する心を、人は中二病に侵された部分で燻らせているものです。
いやーね、とにかく作品批評で批判だけするなんてことは良くないです、良い所も探してこその創作愛です。
批判する側は意識せず全ての要素を悪いように見て、故に作品の一面性しか見えてないことが多いですし、なによりこんなの平和じゃない愛じゃない。
これだけ多くの人に愛される作品なんてきっと見る人が見たら本当にすばらしいと思うに違いない、私はそう解しますし、同時に決して自分と相容れない価値観があることも解しているつもりです。

故に世間的にキャラだけフューチャーされるような作品には、ちょっと潜在的にマイナスイメージを持ってしまう自分もまた認めなければなりません。
やはり創作する側としてニュートラルな公平な視点を持てない事実は悲しいことですが、一度拒絶したものに対する偏見はそう簡単に捨てきれるものではありません。
ただ一介のオタク(なんにでもちょっかい出す人)を自称する者として、機会があれば萌え系ライトノベルも取り組みたいですね。
なので、閲覧者の方々の中で「とらドラ!」を含め、所謂ライトノベルと呼ばれるジャンルの作品を読むことが多い人で今回の文章(特に前半部分)を読むことで気を悪くされたのであれば、ホント申し訳ないです。
それでもやはり、書いたこと自体に自分の意志に嘘はない旨は再度付け加え、言っておきます。
言葉足らずで誤解を招きかねない部分は完全に己の力不足ですけどねぇ。

混濁とした考えを纏めるためにも、こういう読む側が面白いのか書き手自身見失いそうな文章も全身全霊を込めて卸しておりますそれがどッセイ。
今後も「賛否両論あれど優れた作品→特定の要素(キャラ、世界観、思想など)の強調→企業側の心無い商品化の連鎖→アンチの増大→結果的に一つの作品全体の評価を落とす」という負の流れに警鐘を鳴らすという意味で、私は本心で書き続けるつもりです。
私自身には人を傷つけるという他意こそない(つもり)のですけれど、文章を書いているととくづく「人を不快に感じさせない」ことが一番難しいことに気付かされますね。
とま、今後小出しに自分が思う作品論みたいなのは草案として書いていくつもりなので、それを見て感じることなどあればWeb拍手にでも一言送っていただければ嬉しい限り、なんですけどね(苦笑
しばらくの間エッセイどころかパソコンすら触り難かったので謂わばブランク明け、2009年初となる今回。
どうなるかなぁと思っとりましたが、こりゃ今回は黒すぎて逆に眩しい位の黒歴史決定かもしれない(笑

総括、私もとらドラを応援している一人なのでしたー、でっていう。


嘘から始まる恋もある   09/04/12 up


ふー、やっと用事があらかた終りましたよ。
一段落したので、これからは平成異心軍での活動域も広げていきますよ。
拙いながらも奮起してゆく軍団の活躍に乞うご期待、ですよ。
そしてごめん神様、自分を偽りました
えー無理よ無理、なんでいっそがしい時にわざわざ趣味にそんな時間割かなきゃイケないのよ杯GUのオッズはお近くの電光掲示板でご確認願います。
まぁ、元から期待されているわけではないですが、今後も逝かない程度に続けますのでしたり顔。
ただ、この際何の際、ここで誰も得をしない愚痴を言うけど。

あと今回は今までで一番執筆に時間掛けてないけど、分量は多分それなりというメタなんとか構造のタイムパラなんとかス減少です。
まぁまずあれね、4月1日のサイトリニューアル。
新年度からの大型展開の幕開け、大いなる序章を飾る為にも、と、いっちょ気合入れて大幅な工事をしてみたのですよ、せっかくの時事ネタであるエイプリルフールを忘れるほどに。
で、ですよ、要はここからなんですよ、話したいことは。
リアルの知り合いには事前に話してたし、少なくとも同団員の深山にも言ったはずなんですが、
サイトリニューアルに誰も反応示してくれないってのはどういう了見だいって話ですよ、えぇ。
「おい、ホントの愚痴じゃねぇか。」私に対しその様に糾弾されるかもしれません。
その通り

何言ってんだか、と反応されるのは重々承知の上で言いますが、ちょっとさ、人の感性次第ではすずめの涙程度かもしれないけどさ、でもさ、サイトリニュ前よりはさ、ほんのちょっとでもさ、オシャレになったんじゃね?
と言うのは8割嘘なんですけど、更新能率と見易さを考慮して一からサイトデザインを再構成したわけです。
中々寝ずに頑張ったんですが、別に誉めてくれとは言いません、そんな事無理に言ってもらいたくないです、嘘のお褒めに喜べるほど私もバカじゃありません。
ただ、
「頑張ったね」
その程度の労いの言葉さえあれば、私がこんな見苦しい愚痴を言うこともなかったんです。
別に嘘でもいいんだ、何か励みになる言葉を掛けてもらいたかったのです。
そうすれば、私がコラムをさぼってこんなエッセイばかり書く事態になんかなりませんでしたよ。
と言うのは10割嘘なんですが、ガッカリです、主に自分に

・・・・え?
ところでコラムとエッセイの違いは何かって?
意欲


では、ここから今後のサイト運営についてを飾らずに、本音で語ります。
あ、もしかして・・・・へへへ、騙されちゃいけないですよ。
ふふふ、このエッセイ、何も有益な情報は提供しないという前置きはブラフなんですよ・・・実は。
これから本当にこのサイト(主に小説を書いている深山)の将来に関わる重要なことを喋っちゃうんだから、うふふ。

流石のバカバカしさに呆れ、途中で読むのをやめた人もいるかもしれません。

その選択肢、正解



・・・実は今回は全てが・・・・・・嘘八百!

・・・ドラえもんで言うところの・・・・・・ウソ800(エイトオーオー)!!

・・・ルー大柴的に言うと・・・・・・うそエイトハンドレッド!!!

・・・そう言えば映画「300(スリーハンドレッド)」のザック・スナイダー監督の最新作は確か・・・・・・ウォッチメン!!!!

・・・私は必ず・・・・・・・・・・・・劇場に見に行きます!!!!!!


とてもつまらなくて、くだらない   09/04/25 up


と言うわけでですね、映画「ウォッチメン」を見てきたわけですね。
まぁ、それも「嘘」なんですけどねって引っ張るのかそのノリ。
レビューは書かない、いや「書けない」のですが。
「何故」でしょう?
自分が思うに、「自身の作品への理解を深めること」「人に作品を勧めること」
主にこの二つの「目的」があって、感想文やレビューとは存在するものと考えます。
そこで実際、今回の映画を見た私がその二つの目的を達成することが「出来る」のか?

そう、「するかしないか」という問題以前に、
「出来るか出来ないか」という問題を考えると、
私はやはり今回「書けない」のです。



良くも悪くも、ウォッチメンのザック・スナイダー監督が以前手がけた300はクリエイターが描こうとした作品の意義や特性、加えて観に行く人が求める目的も志向性も、非常に「わかりやすい」ものでした。
実際、300にはクリエーターたちの思惑通りの「エンターテイメント性」が表現され、賛否両論ある話題性からも観客が求める「娯楽作品」足り得ていた事は明白です。
虚構と現実の境が曖昧な古代の世界―――関係者は実際の事実とは異なったものと名言していますが―――に、現実味を帯びない架空の人々(キャラクター)を投影した世界観は紛れもなく「映画」染みていました。
しかしその無秩序な括りに、人のキレイじゃない人間臭さを逆説的に浮き上がらせてみせて、それは確かに「現実」染みてもいました。
相反する二つの要素が300の「独特」かつ「幻想的」な魅力を引き出したと、私はあの作品を観て感じました。
もちろん、魅せる映画であるに不可欠な戦闘シーンや背景は、クリエイターの卓越した「業」の賜物。
300はメッセージ性や製作費用だけがやたら取り沙汰される様な複雑な時代において、映画が正しく発展するための一つの「指標」となったでしょう。
「現代映画の正統進化」を垣間見た気がして、実写映画にCGを多用する流れに否定的だった自分でさえ素直に感動しました。

ま、「男達の鍛え抜かれた腹筋」が一番大きな魅力ではあるのですが。




さて、ここで一旦ブレイク。
一体今回のエッセイは、「なにが言いたいのか」?
言っちゃえば、実験です。
過剰な程に言葉言葉に強調を施された文章を読み手側はどの様に感じるのか、そんな実験なのです。
センテンス毎に要のフレーズを目立たせて、パラグラフに設定した主題のセンテンスを際立たせただけの試みです。
こうしたら一つの論に「ブレ」がどれだけ生まれるのかなぁ?
とまぁ、安直にそんな思いでやってみたわけですよ。
ね?今回のエッセイは「とてもつまらなくて、くだらない」でしょ?

結局のところ、実験結果に関しては然るべき時間を置いた後に自分で確認するしか判断のしようがないんで、現段階ではどうもこうもできない程のくだらなさです。
ただ後から気付きましたが、これは速読するにはもってこいの書き方かもしれません。
重要なフレーズをつなぎ合わせたら、「語るべきこと」に「限って」、は簡単に捉えられますからね。
限られた枠内で言葉を並べるだけでもやりたい表現はできるのか、近いうちにそんな実験もしてみようかしら、なんて考えてみたりして。
ま、この辺の文章表現の限界性とかは、文学方面では筒井康隆氏など著名な方々がかなり掘り下げてますが、エッセイでやるってのは聞いた事ないし意味もないなこれってことで発売日未定です。

あ、ウォッチメンについては次回に繰り越しです。
モチロン今回は併せてミスリード(読み違い)も誘っていますので、ウォッチメンはとても痛快で私自身の期待通りに堪能させていただきましたとさ。

http://wwws.warnerbros.co.jp/300/(映画「300」公式サイト)
http://www.watchmenmovie.co.uk/intl/jp/(映画「ウォッチメン」公式サイト)


前回予告したものを書く気がなくなった事実を何となく雰囲気でわかりそうなものでありながらも空気的に明言は出来ないような何かで伝えようと頑張る回   09/05/23 up


今回は予告通り、映画「ウォッチメン」についてです。
と書き出そうと思っていたのですが、まずは私の現在のデスクトップの様子を皆さんにお知らせします。
さて、何となく雰囲気でわかりそうなものでありながらも空気的に明言は出来ないような何かから察して欲しいのですが、当初の予定を変更し、純日本製フル3Dディズニー短編コメディアニメ作品「ファイアボール」を語ることとします。
えぇ、決して明言はしませんよ、野暮ってモンです。
ただ・・・・・精一杯・・・・・・・・はぐらかします!!

地球であるのかどうかも明言されない惑星が「ファイアボール」の物語の大きな舞台。
野生生物を含む自然環境はほぼ壊滅の様相を示し、力を失った人類は機械であるロボットに世界の行く末を委ねることにしたが、いずれからか貴族化したロボットとそれに抵抗を始める人類との戦争が始まり、以後長きにわたり闘いが繰り広げられることとなります。
そんな血で油を洗う戦争の最中、ロボット貴族の一人でありながら人類との共存を望み、そして志半ばに没したフリューゲル公爵の一人娘、ドロッセルがこの作品の主人公となります。
屋敷から一歩も出ること無く育った彼女と執事ゲデヒトニスとの屋敷での他愛無い日常会話が、この作品の全てです。
ロボットであるお嬢様と執事は、本来無機質な存在のはずなのに人間臭く過ごします。
その不協和音さと奇妙なユルさを呈して、物語はしっとりと進行して行きます。
それとここまで書いていて気付いたのですが、このアニメ自体の本編は2,3分で終るので、書くべき事は存外に無いのね
だから、これ以上は未視聴者にとっては何を言っても妄言です、語ることはほとんど無いです、つか流石にテーマの選択ミスですね。
という訳で、気になる人は本編を見てください、Youtubeとか、7月2日から完全受注生産のDVDとかで。
よし、最善は尽くした


最近は新型インフルエンザや松本さん結婚とか裁判員制度などと、メディアはドコもかしこも大忙しなことからもわかるように、旬なんてホントあっという間。
そう、だからこそ旬が過ぎた以上は、今回はあっさりとお終いなのです。


ゾンビがゾンビでなくなった日   09/06/14 up


はじめに。
今回は、私の為の"喪の作業"です。
曖昧で不完全な文章(散文詩的)ですが、論じる内容に則したつもりの趣向です。
書くことは言葉にすること、言葉にすることは確認すること。
いずれまた来るその時の心構えを忘れないための、確認作業です。


英雄、ヒーローは、フヘンの正義では在り得ません。
それこそ、ある人にとっては救世主でも、ある人にとってはただの破壊者であるように、英雄の価値観には善悪の区別もないでしょう。
だから私は思うのです、この世に正義なんかはなくて、ただ信念があるのみだと。
人それぞれに信念を持って理想を追い続けることが、この世界では正義という言葉に一番近しい、屈折も不純物も澱みも無い唯一の行為であると今は考えています。
神もきっと、そんな一つの理想。
信念で、世界で、自分よりも大切に思える、絶対的なものに違いない。
完全無欠のヒーローなんて代物は、私はとりあえずそうであって欲しいし、今のところはそんな風に信じています。
でも私にとってのヒーローは残念ながら大体が人だから、いずれ煙のように消え失せる。
なんとも空しいね、切ないね、お笑い種だね。
嘘を嘘で誤魔化すしかないんだから、いつになったら英雄なんて幻想であることに気付けるのだろうか、それとも気付いてるのに気付かないフリしてるのだろうか、いつか崩れ去るからこその理想なのだろうか。
哀しくてみっともなくて不完全で、とても空々しい私の理想。
そしてそれ以上に想うのは、失われたヒーローはより輝いて見えるんだから、その居た堪れなさとか悔しさとか、そんな空虚な情感。
元々人は彷徨う影みたいなものだから、一度燃え尽きて焦げ付いたら、よりその濃さが増してしまうんだから、いやはや切なすぎますね。
いずれ消え入る儚さを、美徳と捉えて慰めるしかないのですから、これまた切ない。
ヒーローの面影を追って、いつかその理想に辿りつくんだと嘯いて、罪が許されるその日まで、いつまでも、いつまでも、いつまでも。
私たちはいつの間にやら知らぬ間に、果てない背徳の世界に放り込まれた。
私はならばせめて、どんなことがあっても揺るがないフヘンの信念だけは持ち続けたい、そう思っています。
これが私の英雄論で、正義論で、理想です。


先日のことだが、プロレスのリング上から、この世界から、一人の英雄が去っていった。
英雄と称するのは過大評価と言う人がいたとしても、世界の多くの人にとっても英雄と呼べる存在の退場である。
ゾンビとも評される屈指の打たれ強さを誇り、プロレスの為に、ファンの為に、例え満身創痍でも戦いを辞さない、強靭な精神を持つレスラーだ。
だがバックドロップを受けた彼は、受身を取りきれず頭部を強打し、二度と立ち上がることはなかった。
プロレスラーはリング上で死ぬことが本望とは昔からよく言ったものでも、大切に想う人にとっては大きな喪失に変わりは無い。
唐突に、想像だにせず、とにかく急な出来事だったが、信じがたくても、事実に違いない。
いくら偽り言葉を重ねてもやはり、悲しいし、とてもツライ。
道理も無い、深い、暗いだけの感情は、紛れも無く私にとっての貴方の存在の大きさの証なのでしょう。
ただの良い思い出ではなく、私の心に暗い影を落として貴方はいなくなってしまうのか、あんまりではないでしょうか。
あんまりなことだが、あぁ、そうか、そういうものかと割り切って、忙しい生活の中で思い返すことも忘れるだろうけれど、多分思い止めることもない、それだけはきっと確かだ。
でも、早すぎる、貴方は、私の憧れの一つなのです、まだ、まだまだまだ、たたかってほしかった。

おやすみなさい、おつかれさま、さようなら、いずれまた、ありがとう。
貴方は確かに、強かった。



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