深山's 小説「マウンドの上」

最終話

「嫌だ」
蓮は口を開くなり、そう言い放つ。
 思った通りあんなに良い当たりをされたのに、相も変わらずこいつのプライドは高いままだ。
「まぁ、落ち着けよ。別に変化球を使ったっていいじゃないか」
 俺の問いに蓮は首を振る。
「あいつは俺のストレートを侮辱した。だから、絶対あいつはストレートで仕留める」
 本当に頑固だ、こいつは。こうやっていつも自分を押し通そうとする。けど、エースはそうでなくてはならないのかも知れない。
 仕方なく俺は一つ溜め息を吐いて妥協案を切り出した。それに奴も渋々頷く。

「どうですか、ちゃんと信頼してもらえましたか?」
 飯田さんの声に妙に腹が立つ。俺は信頼されてるんだろうか? 信頼と言うより、寄りかかられて甘えられているだけなのかもしれない。
 俺は無言のままでミットを構える。今まで飯田さんはずっと初球から打ってきている。ここはひとまず変化球で様子を見るのがセオリーだろう。ゆっくりと蓮がサインに頷く。
 小さい身体で大きく振りかぶる。その動きにはもう力みは感じられない。
 その手から放たれたボールはゆっくりとした軌道を描き、外角へと逃げていく。しかし飯田さんは全く動かない。
「ボールですね」
静かに呟くとまた元の構えに戻った。
 俺は長い溜め息を吐き、また構える。少しも動かなかった。これは打つ気がないということだろうか? 次は外角にストレートを。
 高い打球音が響く。完璧に芯を喰った音。俺も蓮も一斉に打球を探す。打球はポールの外側に流れていった。ファールだ。
 もう少し球が遅ければ入っていた。俺の背中に冷たい汗が走る。油断は出来ない。
 飯田さんがグリップをもう一度握り直す。ここまでストレートは全てきれいにミートされている。となるとここはもう一度変化球しかないだろう。
 きれいにコントロールされたカーブはストライクゾーンをかすめ、逃げていく。しかし、またもや飯田さんのバットは動かない。これでカウントはワンツー。
 蓮が汗を拭う。あいつがここまで追いつめられるのは久しぶりだ。確かに飯田さんの言うように高校のレベルはこれ程までに高いのかもしれない。
 俺は思いっきり内角に構える。これ以上は逃げられない。ここは信じるしかない。あいつのストレートを信じるしか……
 蓮が大きく頷く。大きく振りかぶり、指から放たれたボールはバットをかわして俺のミットに飛び込んでくる。手がじくじくと痺れる。今までで最高のボールだ。
 途端に飯田さんの顔つきが変わり、笑顔が消える。一度打席を外し、大きく息を吐くとぎゅっとバットを握り直す。打席に入り、足場を固めるその姿は明らかに今までとは違う迫力があった。
 その迫力に呑み込まれそうになる。いや、呑まれているのか? サインを出す指が迷いを見せる。ストレートのサインを出す勇気が出ない。
 もう一度、もう一度だけ変化球を投げよう。変化球で緩急を付ける。そう自分に言い訳してサインを出す。蓮は不満そうだが頷く。
 蓮の指からボールが放たれる。今度はさっきとは違って明らかなボール球、いわゆる遊び球だ。
 しかし、飯田さんは思いっきり踏み込むとそれを無理矢理打とうとする。遊び球であるボールには全く力がなく、バットの先に当たったボールはふらふらと上がり、無情にもライト前にぽとりと落ちた。

「私の勝ちですね」
飯田さんの声がやけにじんじんと頭に響く。これは夢だろうかと思うぐらい呆気ない負け方。完璧なリードミス。相手にびびってあんな遊び球を投げさせた俺の失態だ。
 蓮は呆然と立ちつくしている。あいつもまだ負けたことを信じられないのだろう。
「おーい、何やっとる」グラウンドにやけに気の抜けた声が響く。声のする方を見ると熊のよう、いや熊そのもののような男がのっしのっしと歩いてくる。
「こいつらは入部希望者か?」
 熊男は俺達の前までやって来ると、飯田さんにそう尋ねる。
「えぇ」
「また、テストとか言って後輩いびっとったんかいな。君たち、別に負けても気にせんでいいで。ウチにはややこしい伝統とかそういったモンは一切無いからな」
 そうまくし立てると今度は熊男は蓮の顔をじっと眺める。いや、背丈は蓮の肩ぐらいしかないから見上げると言った方が良いかもしれない。それもかなり近い。蓮は思わず視線を外す。
「確か上杉蓮君ちゃうか? 西浦高校の」
熊男はいきなりそう尋ねると蓮の身体をペタペタと触り出した。これには蓮も度肝を抜かれたようで、俺に目で助けを求める。
 飯田さんが溜め息を吐きながら口を開く。
「監督、止めてください。怖がっているじゃないですか」
「いいやないか、減るモンやないし。おぉ、やっぱりいい体しとんな、君」
熊男は蓮の肩を叩きながらそう言い放つ。蓮は呆気にとられている。
「おい、飯田。今日から上杉君を練習に入れろ。お前が受けてやれ」
そう言うと熊男は立ち去っていく。俺の横を通る時、
「もしかして上杉とバッテリー組んどんのか?」
 俺が頷くと、熊男はボソッと俺にだけ聞こえる声で呟いた。
「飯田が居るうちは上杉は飯田と組ますからな」
 そう言うと熊男はのっしのっしと去っていく。俺は返す言葉もなく、熊男が去っていくのを見ていた。
 飯田さんは一つ溜め息を吐くと俺達を部室へ案内してくれた。部室は思ったよりも片付いていて、結構な広さがあった。俺と蓮は置いてある長椅子に腰を下ろした。
「すみませんね、さっきは。あの人変わってるでしょう。去年、大阪の学校から来たばっかりなんです」
飯田さんはそう言うと、俺の横にどっかと腰を下ろす。
「すみません。さっきの勝負のことなんですが」蓮が不意に言葉を発する。その言葉に俺の身体はピクッと反応する。あの熊監督のせいで忘れていた今の状況を思い出す。蓮の顔はどうなっているのだろうか? 負けた怒りで打ち震えているのだろうか?
「監督も言っていたでしょう? あんな伝統は無いし、別に気にしなくても」
「ふざけんな」蓮は小さな声でだがしっかりとした口調でそう呟く。
「俺は負けたんだ」
「違う」
思わずそう叫んでいた。
「あれは俺の采配ミスだ。最後まで蓮を信じ切れなかった俺のせいだ」
「まぁ、その通りですね」
飯田さんはちらっと俺を見る。
「あの場面には遊び球なんて必要ありませんでした。私なら三球すべてストレートでした。五十嵐君には悪いですが、あれはキャッチャーの責任です」
「違う」
ぽつりと蓮が呟く。
「おれが、俺が変化球で勝負したくないから、だから約束したんだ。変化球はすべてボールにして見せ球にするって」
 蓮は思いっきり握った拳を思いっきり自分の膝に叩きつける。目からは涙がこぼれ落ちている。
「もし、もしも俺があんなわがまま言ってなかったなら絶対に勝てた。達也のリードなら絶対に勝てた」
 静かな沈黙が続く。ふらっと蓮が立ち上がる。
「じゃあ、約束通り俺、球拾いしてきます」
そう言うと蓮は部室を出て行った。俺も続いて出て行こうとする。
「良かったですね」
出て行こうとする俺の背中に飯田さんが声を掛ける。
「どうやら信用されてるようですよ」
俺は一礼して蓮を追いかけた。
 蓮はマウンドの上にいた。そこからただ、ホームベースを一心に見つめている。その目は腫れぼったく、真っ赤だ。
 ふと、こいつは強くなったと思う。俺に、周りのみんなに寄りかかって甘えていたあいつではなくなった。今のこいつなら嫉妬しないで向き合えるかもしれない。俺にはないモノを持っていても許せるかもしれない。
 蓮は俺に気付くと俺に座れと促す。そして奴は大きく振りかぶる。苦労も何も知らない素直なフォームで振りかぶる。
 放たれたボールが俺のミットに飛び込む。もう少しで弾きそうになるところを必死に押さえつける。
 蓮はそれを見ると大きく笑う。俺は今なら言えるかもしれない。俺は本当は自分がマウンドの上に立ちたかったんだと。マウンドの上に立っているお前を見たくなくてお前から逃げようとしたんだと。
 臆病で泣き虫なのは俺の方だった。あまりにも釣り合わないバッテリーだ。
 でも、蓮は信頼してくれている。それでいいんじゃないだろうか?
「達也。ボール」
 蓮の声に俺は思いきりボールを投げ込む。あいつほど綺麗なフォームじゃないけどしっかりと投げ込む。マウンドの上のあいつに。
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