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土井のエッセイ 略して
『どッセイ』


お題

言葉足らずだけれど、読んで欲しい文章   09/08/01 up


信仰の自由に関する2008年国際報告書―日本に関する部分

文化庁の2006年の報告によると、各宗教団体の報告による信者数は合計2億900万人である。この数字は、日本の総人口のほぼ2倍であり、日本国民の多くが複数の宗教を信仰していることを表している。

現代日本では自身を「無宗教」であると言ってもなんら違和感なく受け入れられ、周囲もそれを"普通である"と認識します。
そして逆に、「私はGod(唯一絶対神)を信じます」と明言する人をやもすれば"普通じゃない"と認識する。
ニュースの中の信仰を巡る紛争やカルトが起こす事件を彼岸の出来事のように眺め、あたかも自分の身を置く社会が"正常"であり、宗教に熱狂的である事は"異常"である。
そう考える人も、少なからず存在するでしょう。
しかし日本では多くの人が霊魂の存在を疑わず、迷信に囚われ、占いに一喜一憂し、ひいては"救い"を信じて日々を生きています。
これが一般的で常識的な感覚であり、そして私が日本の共通観念内で生活してきた中で得た実感であります。

ちなみにこの"常識的感覚"は、「無宗教」と言う言葉が日本と名付けられた局所的地域での常識に照らして妥当であることを示します。
つまり、海外での「無神論者」と日本での「無神論者」は意味を大きく違えるのです。
本当の無神論者は世の中のあらゆる矛盾を前にしても超常的存在に解決を求めず、考えて考えて考え抜いた末に宗教から離別する生き方を決意した偉大な人々です。
けれどそんな劇的な精神的改変の過程(イニシエーション)を得ずとも、日本国内に限っては「無宗教」を高らかに謳える、それが現状です。

以上の様な事態、そして日本での宗教の実態を探るために大学で纏めた文書を、以下に記します。



日本人の宗教不理解と現代の孤独

《現代の孤独―正しい方向付けの必要性―》
 日本人はなぜ「宗教」に触れることを嫌い、その言葉を煙たがるのだろうか。
この問題を解決するためには歴史的経緯、教育、メディア等の様々な切り口が考えられるが、結局のところは「宗教」という言葉への人々の不理解(誤解)に集約される。
しかし個人間の分離を図る近代社会は人の孤独をより一層深くしていくのであり、広がる多文化社会の中で多くの人々が心の落とし所を決めかねる事実を見据えたとき、その様な(宗教に留まらない)不理解の類が払拭されない限りは人間は本来的な自由には到底行き着けないことに気付かされる。
この現状がよいか悪いかを私などが判断することは出来ないが、日本社会、ひいては現代社会は明らかに「誤った」方向に進みつつある。
とりわけその方向性を正すのには普段見え難いが根底で多大な影響力を持つもの、例えば「宗教」の顕在化から求められるべきだと私は考える。

《宗教不理解の形成パターン》
 まず、日本において宗教不理解が生み出された根本的要因を明らかにしなければならない。
そこで論理の簡略化のために講義内容と関連文献から得た見地から、多少強引ではあるがそれを三分としたい。
それは伝統、歴史的経緯、社会構造の三つに分けられる。
 一つ目の「伝統」は、何か事件が起きた際において、物事自体の善悪の隔てなくにとにかくそれが標準、尋常から逸脱することを嫌う「日常主義」の問題である。
柳田国男が発見した「平凡人」の生き方は確かに日本のムラ社会全体に深く浸透し、今なお人々を深層から規定する程に根強いのだ。
しかし、(創唱)宗教は人生の(多く尋常ならざる)深淵と向き合うことを人に要求し、教理と照らし合わして時には常識とも対立する。
安易な断定は危険だが、伝統的に日本人は「いま、ここ」にある心の安寧を敢えて投げ打つ行為を恐れる傾向があり、その志向性は(創唱)宗教の受容を阻害するのである。
 二つ目の「歴史的経緯」は、明治期の神道非宗教問題―――信仰と祭儀の厳格な区別化、(創唱)宗教の内外化―――を象徴とした天皇と政治を取り巻く関連性や、日本語で宗教概念を理解する上での一般的(西洋的)見地との断絶など、その議論の幅は広大かつ煩雑に絡み合う。
だが大きくは治世の為の権力側の民衆の意識統一、弾圧が及ぼした影響がそれら素因の組み合わさった根底にあると言える。
また一般的に周知された所の日本語による「宗教」の誤謬は、阿満利麿が提唱する「自然宗教」と「創唱宗教」の差異化によりおおよそ解決される。
 三つ目の「社会構造」は、個人の有する情報量の莫大な増加と、現代日本、そして世界規模で進行する価値相対主義の潮流が深く関与する。
そしてこれは現在に形成され続け、私たちが閉塞された先の見えない今を切り拓こうと言う以上、慎重な考察が必要となる。
IT革命により人それぞれの世界は広大(意識範囲は縮小、価値世界は矮小)になり、それまで一様に安定して供給された価値観は崩壊し、アイデンティティの拠り所を失った人は「孤独感」をより深める―――ニヒリズムが勃興する―――こととなった。
共同体の解体に伴って日本でも宗教に対する認識は変容、批判的に物事を検討する能力の低下は深刻化する。
結果、若者を中心に「信じやすい心」を(特に90年代以降は急速に)生み出す要因となった。

《新新宗教や新霊性運動に埋没する大衆文化》
 以上三つの要素が重層複合して、現代日本の歪んだ宗教認識は形成された。
だが、そこで敢えて私が最重要視したいのは三つ目の「社会構造」である。
人の個性を抑圧する近代合理主義の反省から個人の精神性重視への回帰が図られるが、その過程が皮肉にも人をより深刻な孤独に陥れるのだ。
以降人々は神秘体験、自己啓発などに救いを求める傾向になる。
つまり世間が求めるべくして宗教ブームは表出したのだ。
加えて、現代の病「孤独」と新新宗教や精神世界(スピリチュアリティ)との関係性を今一度検討する際、その介在となる大衆文化(サブカルチャー)の存在力の大きさを忘れることは出来ない。
以下に少しくそれを記したい。
 90年代当時、国内ではバブル経済の破綻から資本主義経済への疑念が深まる中、メディアを賑わした新新宗教に人々が惹かれたものは「お手軽」な自己救済方法であった―――その点から、修行主義のオウム真理教は根本から趣を異なっていたわけだが―――。
そしてそれら多くは終末史観的思想を持つが故に閉鎖的な集団を形作り、行動が盲目的狂信的になると反社会運動を行うカルトとも称され、人々の(創唱)宗教に対する不信感を強める結果を招いた。
また99年以前、教義の終末史観の肉付けにはノストラダムスの予言がよく活用されていたが、当時からそれはメディアを通して大衆文化の中にも深く浸透していたことは言うまでも無い。
そんな中、規律に束縛される宗教団体の風潮を嫌い、島薗進の注目する新霊性運動(自己意識と超越的意識との融合を図る運動)を潮流にして、個人での神秘体験との接近が体系化される。
この背景にも大衆文化の中でオカルトブームと言える現象で、UFO・超能力・占いが人気を博した状況がある。
 このように見ると時代が退廃的―――それは物質的豊かさとは半比例する―――になるにつれて人々は「漠然とした」不安を募らせて孤独になり、合理性を超えた「なにか」に想いを馳せては、未来の世界に「なんらか」の安心感を得たい衝動に駆られるようだ。
本来その衝動から真の信心に至る人も多くいるはずなのだが、「信じる」こと自体から疑える批判意識が足らなければ、それら曖昧な感慨に非現実的事象を当てはめ、その場しのぎに救われた「つもり」になって独りよがりに満足するのみだ。
さらにその手段と過程は簡単なほどに好ましい。
よって容易な救済手段は自らイニシエーションに取り組む覚悟も必要としない為に、大人と言える年齢の人にも子供の「信じやすい心」のままに成長することを許したわけである。
 
《孤独を超克する》
 近代の個人主義化は宗教の分野にも波及し、宗教的世界観の自由を謳う新霊性運動を呼び起こし、それと対立しながらも宗教的共同体の新新宗教が生まれた。
それら活動の共通媒介となったのは大衆文化(オカルト文化)であった。
今後三つの新しい宗教的世界観の担い手がどのような動向を取るのか、とにかく複眼的な視野で見る必要がありそうなのは確かだ。
 最後に大衆文化の分野で宗教による世界観を呈し、現代が持つ病をありありと描いた大槻ケンヂの小説『新興宗教オモイデ教』を紹介したい。
彼はミュージシャンとして活動しながらも小説、エッセイなど多分野での表現活動に勤しみ、オカルト文化にも造詣が深く、いかがわしいサブカルチャーにとても接地した人物である。
そして表現場所を問わず形式に囚われない若々しさをもって、他に類を見ない独特の個性を魅せつけている。
 小説のストーリーを大まかに紹介しよう。
友達のいない平凡な男子高校生の主人公は何の疑問も抱かずに群れる人間、そして罪深い世界全てを憎み、いずれ自分もろとも世界を破壊し尽くす夢想を独り悶々と考えている。
ところが、主人公の元になつみ(キミという世界の中心)が悪しき世界を変える意志を持った新興宗教団体(カルト教団)の信者となり舞い戻ってから、事態は思わぬ方向に進展する。
そして最終的に主人公は世界を破滅させられるだけの力を得るのだが、教祖の元を離れられないなつみを見殺しにして(世界の中心の放棄)、また孤独な日々のルーチンに埋没することに甘んじるのだ。

 霊能力や超能力、オカルトの要素を中心にストーリーの本筋は説かれるが、登場人物の心中に常にあったのは狂気ではなく、超現実的な孤独であったと言える。
この小説には単なる救いようのない非現実的な物語に留めず、人々に人間は孤独であると言う自覚をもたらせるだけの真実味が宿っていると私は思う。
 孤独を超克するためには、救いの無い世界でも生き続ける意志が必要だ。
たとえ他人にも自身にとっても嘘に充ちた人生に見えても、安易に救いを求めずに苦悩する生き方は尊敬に値すると私は考える。

《参考文献》
阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書 1996年
末木文美士『日本宗教史』岩波新書 2006年
島田裕巳『信じやすい心―若者が新々宗教に走る理由―』PHP研究所 1992年
島薗進『新新宗教と宗教ブーム』岩波ブックレット 1992年
大槻ケンヂ『新興宗教オモイデ教』角川文庫 1992年




総括と称しながらも所々にあまり一般的でない用語が含まれてしまい、改めて簡略に語れない私の文章力の無さを痛感させられますが、参考文献に挙げた諸先生方の本には私が語る以上の事が書かれています、是非お目通し願いたいです。
また、宗教を巡る問題は日本のみに留まりません。
歴史的にも長く信仰に篤かった欧州の先進諸国でも、若者を中心として宗教離れが進んでいるからです。
それにも日本で見るように政治、経済、社会情勢など多くの要因が絡んではきますが、確かな事は近代人にとっての「疑う心」の衰退です。
科学万能主義を固持する知識人も、地球規模の環境問題が立ち現れた今となってはそう胸を張ってはいられないでしょう。
ですが、科学による人類進歩へ対する"信仰"はいまだ社会に根強い。
我々が養うべきは批判的思考であり、必要なのはもっと原初的な日常(常識)へ対する偏愛(憎悪)です。
「批判的に物事を見る」
どこか難しげに聴こえる行為ですが、何事にでも懐疑の目を向けることは幼児期ならば誰もが可能であったはずです。
そして大人になるほどに忘れがちなこの行為こそ知識を蓄える前提となる、とてつもなく大切な智恵です。
例えば「今、ここに私がいる」ことを疑い、そして人間が極めて不幸な状態にある悲劇的事実に気付けば、改めて過去の哲学者たちの偉業にも目を向けられることでしょう。

自然科学(理論)で解決できない問題を人間が抱えたとき、宗教をはじめとした非論理的な世界観は表出してきます。
その非論理的世界を論理を尽くして語りきることが、本来人文学(今回の事例なら宗教学)の担う役割です。
情報社会は膨大な情報量の提供を可能としましたが、私たち自身の能動的な、主体的な試み無くしては、無限の知識から"正しい"判断を得ることなど叶うはずもありません。
物事を理解できないことは悪い事ではない、しかし物事を理解しようとしないことは紛れも無く罪です。

最後に。
今回の私の稚拙な文章からでも、科学で解明できない事象を取り扱う人文学は一体何を為さんとし、何を目的とする分野なのか、少しでも理解していただければ幸いです。


判然としないけれど、書かなければならない文章   09/08/01 up


今回は前回の延長戦のお話です。
自分は学生時分で文学部で史学(日本史を専攻)なぞとニッチな分野をやっているもので、周りからいらぬ誤解がなされることが多々あります。
戦国武将が好きだったり史跡巡りがマイブームであったりしませんし、知識量は歴史マニアの方々には到底及びません。
なので私は(最近に入っては流石に下火の)クイズ番組に出れる程に「歴史」に詳しかったりしませんし、「歴史」大河ドラマも眠たくなるのでマトモに見たこともありません。
おそらくこれら「歴史」と言う言葉から連想されるのは、古今東西の偉人英雄の活躍を讃えたり蔑んだり、国同士の大規模な戦争を俯瞰するような、「観客」の視点です。
しかしこの観客の視座には、学術的視点など皆無です。
どころか、ありし現実をまるで舞台や小説を観るように捉え、時に嬉々として人殺し集団を賞賛する(と捉えかねない)声を聞くとき、私は虫唾が走ります―――過去の過ちを加虐的、被虐的に見るだけで、それ以上の進展を見ない議論に対しても同様の思いを抱きますが―――。
私自身、戦記物を読んで胸躍ったものですが、それが現実にあった事実であると知るとき、大変複雑な想いに駆られます。
神話や漫画など、私が秘めたる暴力性の発露を空想(虚構世界)に追い求めるのは、そういうところも関係しているのだと思います。
時代は世界観の違いですので、彼ら自身に(行為を別にして、意識の範囲内では)罪悪はありません。
問題は私たち現代に生きる当事者が、どう見るのかです。
過去の不当な成り行きを確かな現実と解釈するとき、評価は正当になさねばなりません。
これが歴史学の請け負う一つの任務であり、今を生きる人間の責務です。

また、「歴史を学ぶ」と聞いたら、小難しい研究論文や昔の言葉で書かれた史料を分厚い辞書片手にひたすら読み込む様な、暗いイメージを浮かべるかもしれません。
一般的に周知するところ、歴史学とは新しい知識を生み出さずに既存の知識を手繰るだけの学問です。
「過去」を探求する行為と見られます。
明るい将来を開拓するために、学問には「未来」につながる先進的な志向性が根本にはあるはずです。
ところが「歴史学は未来を考慮しない、退廃的な学問だ。学業を趣味としている」そう捉えられてもおかしくありません。
そして私がこの場で反論を企てる以上これは半分は誤りですが、半分は正解であると言えます。
この誤解は多分、「手段」が「目的」とみなされるからです。

「過去」の知識を収集するのは、「現在」の成立過程を探るための実践的な「手段」と成り得るからです。
歴史学が活用するのは「現在」が「過去」の蓄積の上に成り立つ事実を明確にし、さらに研究者個人でテーマ(時代や文化)を定めて仔細に要因を解明していく、その為の実証的手段です。
歴史学者は過去から現在に連なる「これまで」のメカニズムを解す事で、「これから」の「未来」の行く末を見る指標を得ようとする、最終的な「目的」を持っています。
だから過去を学ぶ行為はあくまで「手段」なのであり、過去を学ぶことで未来を見据える視座を提供する成果こそが「目的」なのです。
「人間はどの様に生きてきたか?」という疑問から着手して、「人間はどの様に生きていくべきか?」という根本的な疑問へ取り組むのが、歴史学の担う役割です。

つまり歴史に関する膨大な知識量は単なる付加価値なので、それ自体に意味なんてありません。
博物館に飾られるような歴史史料も読み解く主体がいなければ、鑑定額で推し量る希少性でしか語れないでしょう。
歴史史料は批判過程を通して初めて、学者の主観性(歴史認識、歴史解釈)を裏付ける唯一の客観性(証拠)となり、そこに至ってようやく価値が生まれるからです。
「過去、経験、事実」を「現在、形式、解釈」から捉える、「私(主観性)」が糸口となる将来を見据えた学問体系が、歴史学なのです。

また付け加えると、客観的事実を主観で判断するこの営みに科学性はありません。
人文学全般に言えることですが、殆どの研究者の得た解釈には厳密な科学的な実証が不可能なので、その主張に妥当性を与えるのは論理的整合性のみです。
問いかけるのは私であるので、事実から導出した解釈も私的な代物に留まります。
他者に納得させるだけの説得力(構成力)が、人文学に求められる力です。
故に理屈で押し通すことを本位とする以上、人文学の担当する領域は趣味の範疇と捉えられても、反論はできないのかもしれません。



理念(あるべき状態)を追い求める行為に意味を感じ、価値を見出すかどうか、それも「私」にかかっている。
そして、私は理想主義者です。
だから、あらゆることを肯定的に捉えるだけの意識を持って、理念も信念へと置き換えます。
私の勝手な解釈ですが、いずれ自存在全てが淘汰されるとわかっていても、屈せず能動的営みを続ける意志こそが信念です。
ただ私のその信念に甘えは消えないし、ニーチェが語る「力への意志」ほど誇れる態度でもないでしょう。
ですが、それに近い事を実施していると信じる力だけが、私の信念の唯一つの拠り所です。

この世界の中、学ぶ行為に意味はあるのか?
この時代の中、歴史学を何故選ぶのか?
この社会の中、信念は邪魔でしかないのではないのか?

考えて、悩んで、迷って、苦しんで、開き直って、やはり私はこの道を進むのでしょう。
今はこの状況を信じたいし、これからも信じようと思うのだから、ひとまずは。
どれだけ疑いつくしても疑う私は疑えない、だからこの私《信念》を持ち続けるのです。

過ぎ去りしあの時代、あの社会を想う時、私はありし世界の可能性に希望を馳せる。
希望を捨て去るとき、生への意志を否定するとき、苦悩から開放されるとき、そのときまで可能性は立ち消えない。
理想(未来)を信念(現在)とし、渾沌たる現実(過去)の中で問い続ける姿勢を私の信条としたいのです。


ホテルに置かれた聖書のように   09/08/01 up


今回でどッセイも、めでたく第13回という節目を迎えます。

アニメやドラマで言うところの1クールというわけでもなく、そもそも週更新でないから厳密には1クールであるわけでなし、別に一周年を迎えるわけでもないけれど、個人的に区切りの回です。
その記念すべき回を総集編(手抜き)とし、どッセイの今までの足跡をたどります。
これまでを参考に、これからを考えます。
と言うことはつまり歴史についてなので、今巷で大人気の戦国武将を語ります、違います、むしろ大嫌いですね、ゲームとかで大人気のトランプゲームの名前みたいなアレ(笑)、とか、某馬鹿監督のローマ字読みのアレ(爆)、とか、特に。
なーんて、物議を醸し出す発言ばかりなこのどッセイですが、リー○21の本当の満足した人の割合ぐらいは愛で構成されていますのでご心配なく。

総集編であるので、エッセイを一度見返してみました。
その客観的な(つまり語り手が「私」でない)感想を、以下に記します。




今までのを一通り見る限り、もの考えるときの立場がブレてるのか一貫してるのかすらよくわからないね、この人
それと初期の方(第1回第2回第3回)が肩の力が抜けていて、出来が良く感じられるのは何でだろう。
コンセプトとか書きたいものがまだ見えやすいし、比較的短いから無駄が少なくて、言葉回しのリズムも良い傾向だからだろうか。
なにより、まだ面白いもの

あれかな、第4回辺りから文章の冗長さに拍車がかかってきたんだろうね。
第4回はまだ別の書き口の提示として見るならいいとして、同じ傾向の第5回に関しては弁論のしようがない
受験勉強のストレスだか何だか知らないけど、この程度の内容を手癖で書くなんて許せない。
なんにも冒険してないじゃないし、ひとっつも面白くもないぞコレ、というかオレ
インテリっぽさを出そうと必死に難しい単語使って、でもその中でもボケたろうと空回りして、見てるこっちが悲しくなる。
自分の能力を過信してるんだろうね、所詮こんなエッセイとかブログなんて、オ○ニーでしかないのにね。
その上書く内容は薄いくせ、オチさえつけりゃいいとか開き直ってるんだから、より性質が悪いよな。

次に違う所で問題が出てくるのが第6回
多少は反省したのか面白さは及第点だけど、思い付きで書いていったんだろうな、構成も言葉の使い方も杜撰。
「後日〜」とか「別の機会に〜」とか、自分の考えをまとめる力も持ち合わせてないことを自ら露呈してるような書き方だもんなぁ。
無駄に長く書きゃいいってもんでもないだろうに
まぁそれでも、毎回趣向を変えたいという試みはこちらとしても理解できるし、確かに第7回は久々にハマってるとは思う。
内容としての統一感が見られるし、テンポもボケの入れ具合もこれまでの中では屈指の出来だと思うわ、我ながら
というか一番時間かけてないのが一番面白いだなんて、残念通り越しておめでたい人だよな。

でも、第8回は方法論としても内容としても一体何がしたかったのか理解不能
だって最早面白いこと書こうという意思が感じられないんだもの、第7回の面白さはどうしたんだろうか
実験的だったら何でもいいわけないのにね、ついには文学者気取りだなんて、目も当てられない。
中身の吟味を怠って、既に目的を見失っている書き手の姿がミエミエ。
そんな中での第9回、分量も厚みもないけれど、ただ、愛の深さはわかった
もうこの人なら完全受注生産のDVDも予約してるんだろうね、興味のある人は今月中に決心を!(Amazon)
ただ、本当は映画「ウォッチメン」から見れる現代アメリカの終末史観とかアメコミのメタ構造ネタを皮切りに、平和論やお得意のつもりの創作論に至るまで、色々と書こうとしたらしいけどね。
書きたいものが多くなりすぎて挫折するなんて書き手としてはどうかと思うけど、時代が時代だけに考えさせられる内容でしたね、ホント。

第10回第11回第12回は思い切って真剣さと真面目さだけで押し通したようだ。
率直な書き口から書き手の本音が垣間見えるし、これまでで一番好感が持てるかもしれない。
所々詩的だったり感情的だったりして読み辛いけれど、それだけ思い入れのある内容になったと思う。
あと、第11回第12回に関しては今日(8月1日)で一気に書き上げたものだから、これ以上の客観視は無理。

そして第13回
斬新さは買いたい。
多分過去に実践者はいない、こんなの実践したくもないだろうし。
ただ、申し訳ないけれど、これまでで一番笑えない内容。
書いてる側にとってもこれ以上の苦痛はないよな、うん。




こう他人目線でまとめてみますと、一人の人間の見事な迷走っぷりを見れて面白いものです。
ですが「傷口に塩を塗る」とは正にこういうことなんでしょうな、丹田が痛い
それと、本日付け(2009年8月1日)で書いた11~13回を併せると、一万字近くとなりますね。
今回に限っては冗談抜きで全然暇じゃないのに、ご苦労様なこってですよね、まったく。
無論当代過去最長、もうやりたくありませんね、気が乗らない限りは。

さて、今回手繰ったどッセイの変遷を見れば一目瞭然ですが、これから一体どんな内容になるのかは書き手である私自身もわかりません。
余暇の合間の陥穽に、時間潰しに読めるデタラメなエッセイがあってもいいじゃない。
今後とも、よろしくお願い致します。




だが、これだけまとめて仕上げたのは、しばらくの間更新がストップする前兆であったなどとは、誰も知る由はなかったのである。




オチって大事だよね   09/08/21 up


今回はキャラクター(虚構の人物)に魅力を見出すのに「本物」とか「個性」が必要であるかどうかを論じます。
それと自分で言うのもなんですが、えらく難解な文章になってしまいました。
理解力とか思考力ではなく、共感力が求められる文章だと言えるかもしれません。
ボケもギャグもシャレもないので、読むかどうかは以下の小題から判断してください。

《本物は本物ではない》
《主観の優位性》
《人は英雄願望を脱却することは出来ないのか》
《個性を評価基準として置くことは、明らかなウソである》
《作者が個性を騙る事は、作者の盲目を生み出しかねない》
《語り手や書き手は、虚構の中でのみ成立する》
《魅力的なキャラクターは"まなざし"の中で成立する》
《改めてまとめ、みたいなもの》




《本物は本物ではない》
 まず最初に、と言うか今回はそんな話ばかりになるのですが、まずは「本物」と言う言葉の不完全性についてです。
おそらく、我々が直感の上で捉える「本物」は「本物らしさ」でしかありません。
「本物らしさ」はサルトルの言う「本質」でもあるでしょう。
「本質」は現象界には存在せず、今の我々が規定し、それ自身生起するものであり、短絡的に言えばそれはある意味「思い込み」です。(実存は本質に先立つ)
なので本物らしければ、キャラクターは十分、本物足らしめられると言えるはずなのです。
これだけでは少しわかりづらいと思うので、もう少し言及します。

《主観の優位性》
 キャラクターが物語世界で魅力を持って息づくには、「人間性」や「人間味」と呼ばれるリアリティな要素が不可欠です。
現実的にはありえない、どこまでもデタラメなキャラクターが虚構世界では成立出来るのは、その人物に私達に似たもの、「人間らしさ」を私達自身が感じるからです。
私達に真に相容れない存在ならば、その存在をたとえ認識したとしても、理解は示せないでしょう。
「人間性」は主観から捉えられるものなので、同一人物に対してでも私達はそれぞれ頭の中で想定する「枠組み」の中で理解します。
「人間性」は「人間らしさ」を体現し、私たちの主観がその「人間性」を規定します。
その「人間性」はキャラクターの「本物らしさ」までも充足するので、私たちの主観は「本物」までも想定するのです。
だがここまで書いてみて、やはりどうも、上手く説明しきれていないように感じる。
少し遠回りになりますが、この事を他の分野に置き換えて考えてみます。

「人間性」に対する主観の優位性とは、「作品」に対する主観の優位性にそのまま置き換えられます。
固有の作品に主観に基づいた一定の価値を与え、その価値にある程度の共通性が見られるなら、つまり多くの人にその作品が興味深いと理解されるなら、それは「一般性」を宿した魅力あふれる作品になるのです。(ベストセラー)
ただ時に一般性を逸脱した要素を孕み、しかしその魅力が明言化できない場合、統一化できない多くの解釈が生まれます。
一つの作品には、個人の観点で見れば無限の解釈がありえるのは同然なのですから、それが作品の「普遍性」を宿した魅力につながるのです。(不朽の名作)
しかしベストセラーはその一般性が時代を通して長続きしなければ色褪せ、また不朽の名作もその魅力を再発見出来ない場合(例えば、ロマン主義の時代にようやく脚光を浴びたバラッドなど)が多々あります。
 そういえば今、「不朽のベストセラー」と聞くと私の頭の中には聖書が浮かんだりしたのですが、宗教は時代ごとに形を変えるので「一般性」は確保できるし、教典には根源的な問いの答えが書かれてあるので「普遍性」も有していると言える。
ここから何か作品におけるフヘンの法則など見出せそうな気もするのですが、今の段階でこれは脱線ですね、軌道修正します。

《人は英雄願望を脱却することは出来ないのか》
 また、「人間性」とは(一般的に妥当である範囲内での)人間全体にあてはまる「特性」です。
面倒な言い回しになってしまいますが、虚構の人物(キャラクター)が現実に生きる人物(我々)であることは本来ありえないので、虚構の人物に現実に生きる人間が認識する「本物」を喚起させる要素を抱えさせなければ、キャラクターは人間「らしく」動き出しません。
必要なのは「らしさ」という抽象的な概念なので、「人間性を確立した」と言われるキャラクターは凡そ、過去の法則性に従わなければ描くことは難しい。
よってこの法則性を紐解くことで専門家により体系化、類型化され得るわけです。
また一般人にとっても「らしさ」を意識して考えればキャラクターは一定の指向性を持つ事実は十分理解できますし、キャラクターのいわゆる「お約束」も捉えることが可能です。
そして私達はその「お約束」に帰着することに安心したり、不信感を持ったりするからこそ、半永久的にさまざまなキャラクターを創り続け、物語り続けるのです。
人間の創作意欲とはこのことから無限機構と呼べます。
その無限機構は常に世界の変革を試みますが、今の所多数の物語が「英雄」と言う存在に帰着することからも、人が「正当」を脱することの難しさを改めて痛感できますね。

《個性を評価基準として置くことは、明らかなウソである》
 どうも曖昧模糊として、明確な結論が得られません。
ここで実践的な試論として、私は「登場人物(キャラクター)」を捉える新たな視点として、「個性」の従来の不当な扱いについて言及します。

 世間では「個性的なキャラクター」であるほどに魅力を感じ、好ましいというのが専らですが、これには私自身どうも納得しがたい。
と言うのも、私たちが一つの実体を「個性的である」と考えるとき、それは言葉面通りに「個としての特性がある」と捉えるのではなく、ほぼ無批判にその対象を「個性的である」と「分類化(カテゴライズ)している」だけだと考えるからです。
その上でやはり、「個性的」=「魅力的」という思考回路が無意識のうちに働いている気がしてならない。
分析を怠って、果ては「このキャラクターは●●●が○○○だから個性的である」などと構文化してしまったときには、「無数にある個性」を「単一の特性」であるかのように誤謬しかねないのではないでしょうか。
こうなってくると「キャラクターの魅力」は「個性の強さ」であると言い切れるとは、到底思えない。
そもそも、違うことに意味の重きを置く「個性」と言う言葉を、強さや有無で推し量ること自体に多くのウソを感じざるをえない。
そして、この試論の結論を述べると、キャラクター(虚構人物)には「個性」という曖昧な概念は目に見えて出さない方が、作品としては良心的であり「好ましい」のではないかと、私は思うのです。

《作者が個性を騙る事は、作者の盲目を生み出しかねない》
 私はここでまた「個性」という単語は不完全であると捉え、情報の齟齬が生じるのを防ぐためにその意味合いを明確に規定します。
日常の中の「個性」の言葉が持つ"肯定的評価"や"他者との差異化"などの意味合いから切り離して、「個性」を「個を個たらしめる性質」、「個が存在する理由」という根源的な意味で用います。
そしてそこから更に発展し、「個性」は「私が私である」ことを想起させる一つの概念であると想定し、「私は意識ある者、私は私を唯一変革し得る者」という「自覚」を持った実体を認識するための発起点となるものであると、とりあえず今は仮定しましょう。

 言葉の定義も終えたので、順を追って「個性的なキャラクターが魅力的である」ことを批判します。
「個性」は「私」を「私」たらしめる性質なので、現実問題「私」が一人である事実が揺るがない限りにおいては、「個性」は物語やキャラクターのように類型化されることは出来ないはずのものです。
「私が私でいられる」理由は私達各人が意識しない限りは到達できない関心の対象ですし、単純な言語化が可能であれば哲学者も科学者も苦悩しないものでしょう。
 つまり「個性」とは本来「語りえない」ものであり、物語作品上で「語られる」キャラクターに作者が個性(とみなされる要素)を意識して持たせることは、ナンセンスであると私は考えます。
それは「個性」を語りえると捉える欺瞞性も理由になりますが、わざわざ作り手が持たせる個性(とみなされる要素)である以上は、それは作者が「魅力的である」と思えるものでなければならない。
作者が原則として魅力的な世界を描こうと志向するのなら、「個性」を打ち出すには自己肯定と言う欺瞞性には目を瞑らなければなりません。
しかし、その手法は「魅力的でない」人間性を無視しているようにしか思えない。
「魅力的である」人間性の構築は、「魅力的でない」人間性の批判なくしては成り立つものでないはずです。
 思い返すと、作品の評価には読み手の主観が優位に立っていたことをここで判明にしました。
つまり「魅力的である」か「魅力的でない」かの判断基準も、読み手側の手の内にあります。
作者が魅力的と感じるかどうかは、本来的には不必要な判断基準なのです。
ただ、作者が自身の書いた作品を「一人の読み手」として再解釈するならその評価は冷静に、かつ有効に作品へ転用できる可能性があります。
私はこの可能性に賭けて、自身の構築した世界や人物こそを「書き手の自分」から切り離して「読み手の自分」で見る、要は「これ面白いのか?これ魅力あるのか?」と自問し続ける手法を採用します。
ただまぁ、裏の裏を衝いたことで結局「自分が好きなもんを考えてるだけじゃね?」という疑心暗鬼にも陥ってしまったので、周りから意見をもらわないことには身動きが取れなくなってしまうのですね。
葛藤はするのですが、やはり自分の面白いと思えるものこそ創作する意味があるのですし、何だか不毛な葛藤です。

 でもやはり盲目的に自身がスバラシイと感じる作品を作っても、それは自分にとっては至上の傑作であったとしても、他者の評価する目、「まなざし」を意識していないような世界観などは脆弱としか言いようが無いでしょう。
私は創作活動とは一種の自慰行為であることは認めますが、創作者は世に自らの恥部を晒す咎を背負う以上は、自身を慰めるだけに留まっていては駄目な気がします。
そして、作品は決して社会の価値判断に照らして評価されるものでなく、「この世界を変えたい」意志がどれ程あるのかで評価されるべきだとも考えます。
私のこの評価基準が絶対の正義であるともやはり思えはしないのですが、私自身が「人間は世界に安住するのではなく、世界を打倒出来る存在である」可能性を信じる手前、この事を断言するスタンスを崩すわけにはいかないのです。

《語り手や書き手は、虚構の中でのみ成立する》
 ここまでの私の幼稚な論理で語られた考えが正確でなくとも、少しでも皆さんに実感として伝わったのなら、一つの結論が結ばれると思います。
やはり、作品の主導権は読み手側にあるのです。
作品の中で「悪者は滅びなければならない」と主張したつもりでも、読み手によっては「勝った者が正義であり、滅びた者が悪である」という全く異なった解釈がなされる可能性もある。
作品の中の世界も、キャラクターも、物語も、書き手の考えすらも全て、読み手側の所有物なのです。
 例えば、私は現在この文章を書いていますが、私自身もこの文章の中では一つの要素に過ぎず、今現在語り手という役割を担っているだけです。
エッセイの持ち主と称す土井は「今、ここ」にいて皆さんに語りかけますが、土井の中の人、つまり「私」は過去(2009年8月21日)にどうやら「書いたらしいぞ」と言う不確かな事実があるのみで、今、キーボードを必死に打っている人物の姿は、読み手側に由来する「虚像」なのです。
故にここ(物語世界)に、「本当」は存在しません。
私「らしき」存在が語り、私らしき存在がどのような思いでこの文章を書き、何を伝えようとしているのか、それは決して事実関係として残ることはありません。
一度書き終えてネット上に公開した段階で、私はこの文章という物語の唯一絶対の所有者、ではなくなるからです。
以降、私の記憶「らしき」もので事実関係が語られることもあるかもしれませんが、それすらも以前「書き手だった人物」が「物語の読み手」となって捉えた一つの解釈です。
と、今度は哲学チックな方向で脱線してしまいましたが、そろそろ私のキーボードを打つ指も疲れてきたので、結論に至ります。

《魅力的なキャラクターは"まなざし"の中で成立する》
 私たちが主観的に判断した上で初めて、キャラクターは本物「らしく」なれます。
彼らの魅力となる「人間性」は「本物」らしさであり、それは謂わば「まなざし」の元で成り立つと言えます。
でもそれはキャラクターが「本物」でないことを否定するのでなく、元々現実世界の人間からして「らしさ」で成り立っている存在ですから、当然のことです。
ガンジーは非暴力、非服従の体現者「らしく」生きたのであり、マザー・テレサは神の愛、そして全ての愛を教え説く聖者「らしく」生きたのであり、未来永劫多くの人にとって彼らの人生は「本物」と呼べるものでしょう。
シェイクスピアは「全世界は舞台だ。そして、すべての男も女もその役者にすぎない」と劇中のキャラクターに述べさせますが、劇中で幾度も幾度も隆盛と破滅を繰り返す彼らもまた、やはり十分「本物」と呼べるものではないでしょうか。
「本物らしさ」で満足できないのならば、私たちは孤独に嘆き悲しむ以外の術は残されていないように思うのですが、如何せん人は「本物の自分」や「本物の個性」をあたかも「どこか」にあるかのように錯覚しがちです。
「個性」は「個としての存在特性」である以上は、「私」以外は「私の個性」を真に語ることは出来ないことを、自覚しなければなりません。

 また、創作者が魅力的なキャラクターと言う「人」を生み出すのに必要な技術は「人物を抽象化させた上で、その人物をいかに魅力的に描けるのか」、にあるとも考えられます。
金子一馬先生と荒木飛呂彦先生が対談で話していましたが、ウルトラマンはあれ以上簡略化は出来ないのです。
ウルトラマンは、人型としては絶妙の、しかも紙一重のバランスの上で成り立つかっこよい姿なのです。
複雑なモデリングが成されるほどに「仮想」は完成されますが、「現実」は未完成であるので、仮想現実は完成形に近づくほどに人々の魅力から疎外されていきます。
私も創作者として、全ての人が魅了されるヒーローやヒロインはわからずとも、その最小公倍数に近いものは得られるはずだと信じ、追い続けたいですね。

 とまぁ、掲示板に私のキャラクター案を晒したのは、私が魅力的だと感じる要素は、果たして他人目から見てもある程度は共感してもらえるのか、という目論見があったからなんですね。
そして同時に、あのキャラクターは人であるので人間味や人間性の本物「らしさ」も必要です。
「個性」が成り立つことも求められるので、一般的に個性とされる要素を意図的に冒頭陳述していますが、これは私がそのキャラクターを(読み手として)見たときに感じる第一印象のようなもので、決してキャラクター自身の「個性」そのものを指すわけではありません。
キャラクター設定を見た上で、皆さんの頭の中で編まれた人間像こそが「彼」なのであり「彼女」なのであり、彼らの「個性」なのです。
それは決して、容易に語り得るものではありません。
まぁ、ややこしいことこの上なしですが、そのことに関しては上述した通りです。
あのキャラ設定を見て「ありきたり」と感じられたり、「パクリ」だとも思われかねないのですが、今は甘んじて受け入れましょう。
そもそも私の力量なんて、たかが知れているんだから。
加えて、私の創作意欲から奈須産の菌糸類を除いたら一体何が残るのか。
私にもわかりかねます。

 ただ、そんな手前勝手な理由を、こんな長い文章にしたためる必要があったのか、なぞですね。
私の考えが少しでも伝われば、頑張って書いた意味もあったのかもしれませんが、書く事で私自身再発見することもあったので、まぁ無意味ではなかったでしょう。
ただ今回のエッセイの感想とかは期待はしないほうが良いでしょうね。
自分ですら読み返すの躊躇うもの、こんな難儀なもの、うん。


《改めてまとめ、みたいなもの》
 上でも何だか全然まとめられてないようなので、言葉を換えてもう一度。
私の考えではもちろん虚構に生きる人物もれっきとした人間であるので(面倒なので、説明はカット)、私達が見る魅力などとは関係なしにそれぞれに個性は持っているのですが、個性を直接的に語ることは先述したようにほぼ不可能ですし、不可欠でもありません。
作品の評価で「この人物の個性が際立っている」という評価は、「この人物は興味深く感じる。なぜならこの人物は特異な行動をしているが、"理解できる範疇であり"、"妥当である"からだ」というプロセスがあって初めて成り立つものです。
 たとえばバッドマンシリーズで登場するジョーカーが印象的なのは、無秩序をひたすらに追求する破壊行為の「不可解性」がある程度「理解」出来て、一定の水準で「妥当」と思える要素を満たしているからです。
だから魅力的な悪役とは私達の「社会的に常識的でない」部分と、「人間的に常識的である」部分の両方の体現者とも言える存在です。
創作者の末端としてはそんな奴もまた、追求していきたいですね。




さて、何度目かですが、また理想論に帰結してしまいました。
でも理想を騙るのは自由ですし、今後も頑張っていこうと思います。
そして、まさかまさかの、過去最長回の癖にオチなしと言うこの体たらく。

だめだこりゃ



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